25年で姿消した不遇の路面電車「川崎市電」の軌跡 戦時中に開業「環状線」構想もあったが実現せず
その後の川崎臨海部の交通は、鶴見川崎臨港バス(現・川崎鶴見臨港バス)が担うことになる。産業道路の建設のために海岸電軌を県が接収した見返りとして、鶴見臨港鉄道に対して同区間のバス免許が与えられ、これにより規模が大きくなった同社のバス部門が独立したのが鶴見川崎臨港バスなのである。
しかし、戦時下に入るとガソリンを含む石油製品の消費が統制され、木炭バスなどの代用燃料車(代燃車)が用いられるようになった。さらに戦局が悪化すると、木炭・薪・石炭などの代用燃料さえも手に入りづらくなり、バス運行に支障をきたすようになる。
こうした状況下、大師方面の軍需工場では、「通勤する従業員が川崎駅からバスで1時間、大師線利用で大師駅から徒歩で40分を要し、生産増強に大きな支障」(『市営交通四十年のあゆみ』川崎市交通局)が生じる状況となった。このような通勤難を解決するために建設が検討されることになったのが、市電だったのである。
どんなルートを走っていた?
川崎市電は、海岸電軌の復活ということではなく、かなり異なる路線を走ることになった。産業道路上など一部で海岸電軌の経路と重なる部分はあったものの、川崎市内に路線が限定された縮小バージョンであった。川崎「市電」なのだから当然といえば当然である。
川崎市電の路線を現在の風景に照らしながらなぞってみよう。起点は国鉄(現・JR)川崎駅前にあった。起点停留所の位置は何度も変わっているが、最終的には新川通りのすぐ西側、かつての「さいか屋 川崎店」(現・「川崎ゼロゲート」)前に置かれた。
ここから西進し、現在の市電通りに入り、南東へと進む。第一京浜国道(国道15号)を渡ってしばらく進んだ先の、現在、マクドナルド川崎渡田店がある場所一帯に、市電の渡田車庫があった。開業時には川崎駅前にあった車庫を、市の区画整理事業の都合で、後にこの場所に移転したのである。
市電通りは、やがて産業道路に突き当たり、正面にはJFEスチール(当時の社名は日本鋼管)の広大な敷地が広がっている。市電はここで左折し、産業道路の進行方向右側を進んでいた。
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