近代日本支えた「鉄道貨物の拠点」隅田川と南千住 レンガや織物工場で発展、今も物流で存在感
政府は住宅事情を改善する目的で日本住宅公団を1955年に設立。東武鉄道伊勢崎線の沿線には、松原団地(現・獨協大学前<草加松原>)駅を最寄りとする草加松原団地やせんげん台駅を最寄りとする武里団地が造成された。両団地は住宅公団史で特筆されるほどのマンモス団地だが、造成前から都心部への足を確保することが課題になっていた。その対策として、政府は営団地下鉄3番目となる日比谷線の建設を決定する。
日比谷線は北千住駅から都心部へと向かう路線で、計画時から伊勢崎線と相互乗り入れすることが決まっていた。しかし、1961年に開業した最初の区間は南千住駅―仲御徒町駅間だった。そうした経緯から、同線の起点を示す0キロポストは南千住駅の近くにある。同線の開業は南千住駅一帯を住宅地・商業地へと変貌させる起爆剤になった。
【2023年4月27日11時44分追記】初出時、日比谷線の開業区間駅名に誤りがあったため修正しました。
一方、周囲が宅地化することを見越していた名鉄は、取得した旧工場の土地の一部を東京都へ売却し、1963年に荒川工業高校(現・荒川工科高校)の校舎を建設。残りの土地は河野一郎農林大臣の仲介によって大日本映画製作(大映)へ売却し、1962年、同地に野球場「東京スタジアム」が開場した。
東京スタジアムのナイター時に放たれるカクテル光線は、常磐線の車窓からも眺めることができ、常磐線の名所になっていた。しかし、わずか10年後の1972年に東京スタジアムは閉鎖。その後の南千住は、長らく静かな住宅街の道を歩んだ。
マンション群と貨物拠点「共存共栄」
そして、南千住を大きく変える波が押し寄せる。それが2005年に開業したつくばエクスプレスだった。同線は秋葉原駅―つくば駅間を結ぶ新線として計画され、当初から南千住駅の建設が計画に盛り込まれていた。
南千住には地上に新駅を開設できる用地の余裕がなく、常磐線と日比谷線の隙間に地下駅として開設する計画が進められていく。しかし、地下駅の建設でも地上での作業が発生する。そのため、一時的に常磐貨物線の線路を撤去して、工事スペースを確保するという策を取らざるをえなかった。
1973年に隅田川駅の水運設備は完全に撤去されたが、それでも常磐線を走る貨物列車は京浜工業地帯を支える重要な役割を果たしている。期間限定とはいえ、常磐貨物線を休止することは日本の工業停滞を招く。それは絶対に避けなければならない。苦肉の策として、常磐線の貨物列車は常磐貨物線を使わず、旅客線の常磐線を走って田端操駅(現・田端信号場)まで行き、そこからスイッチバックで隅田川駅へと向かうという対応を取ることになった。
つくばエクスプレスの開業後、周辺には高層マンションが増え、人口も急増している。それでも工業地としての面影は強く残り、現在も隅田川駅は鉄道貨物の拠点として機能している。旅客駅である南千住駅の重要性が増す一方で、貨物用の隅田川駅との共存共栄が図られている。
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