武田に処刑された足軽、家康を救った驚きの一言 磔にされた鳥居強右衛門は旗指物にも描かれる
強右衛門は木柱に括り付けられた。強右衛門は叫ぶ。「城の中の人々、出てきて、お聞きください。この鳥居強右衛門、城にひそかに戻ろうとして、捕まり、このざまだ」と。
城にいた者は出てきて「強右衛門じゃ」と聞き耳を立てる。強右衛門が城内の者に伝えた言葉は、勝頼に言ったこととは、真逆であった。
「信長は出陣していないと言え、命は助けて知行地をくれると武田に言われたが、信長様はもう岡崎まで出陣している。嫡子・信忠様も出陣。先鋒は一の宮、本野が原にいて大軍。家康様、信康様は野田に移り、城を固めている。よって、3日のうちに運は開けよう。そのように、信昌殿に伝えてくれ」と言い放った強右衛門。すぐさま、武田方によって殺された。
武田方としては、強右衛門を使って「援軍は来ない。だからこれ以上、城を守ることは無意味。開城せよ」と言わせて、長篠城内の戦意を挫き、開城させようとしたのだろうが、強右衛門の「裏切り」によって頓挫したのだ。
強右衛門は旗指物に描かれる
強右衛門の機転と死によって、長篠城の将兵の士気は大いに上がったのである。強右衛門は後に旗指物(はたさしもの:戦場で用いられた軍旗や飾り物)に描かれることになる。それが「落合左平次道次背旗」だ。
武士・落合左平次が、戦の時に、背中にこの旗指物を括りつけて戦ったと言われる。その旗指物には磔になった褌(ふんどし)一丁の凄まじい形相の男(強右衛門)が描かれていて、見た者に鮮烈な印象を残す。
落合左平次は武田の臣であったが、強右衛門が処刑されるまでのわずかな時間に強右衛門に接し、その忠義心に感動。磔にされている強右衛門の姿を絵に残して、これを旗指物として使ったという。
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