ところが、都市部におけるサービスは、人間関係に頼るよりも、後腐れのないドライな市場経済に委ねられる。たとえば、地元の商店街で店主とあれこれ世間話をしながら買い物をするのではなく、スーパーに出かけて値札を見ながら必要な物を買ってくるという感じだ。この図式が葬儀にもそのままあてはまるようになったのである。
そうなると「布施はお気持ちで」などと言ってくる住職と面倒なやりとりをするよりも、「イオンのお葬式」などに頼んだほうがわかりやすくて便利と考える人が増える。宗派や予算を伝えれば、業者が相応しい葬儀の形を整え、僧侶も呼んでくれる。仏式葬儀といいながらも本来主役である僧侶は業者の下請けのようになっているのだ。
都会のお寺のなかには、こうした市場化の流れに乗ろうとするところも出てきている。日本では墓地の経営は、自治体、宗教法人、公益法人に制限されている。つまり、葬儀と違って民間の営利業者が参入してくる心配はない。
しかも、都市部は人口密度が高いため、墓地や墓苑のための土地が不足している。そこで、お寺の立地を生かしてビルを建て、そこに機械式の納骨堂を入れれば顧客ニーズと合致するだろう。
さらに、対象を広くするため、宗派は不問とし、専修念仏を唱えた法然開宗の浄土宗だろうが、その法然を『立正安国論』で散々こき下ろした日蓮開宗の日蓮宗だろうが一切関係なく、取引に応じるとしている。ビルの建設費は葬儀社や墓石店が肩代わりし、お寺は納骨堂の販売代金で返済するというしくみである。
ガバナンスの脆弱性がもたらす問題
宗教法人は他の非営利組織と異なり、憲法20条【信教の自由】によって行政の介入が制限されている。つまり、何か問題が起きたときには自助努力で解決しなさいということだ。
過疎化による寺院活動の消失は、単にお寺が1カ寺消えるだけの話ではない。なぜなら、実体のない宗教法人格がそのまま残っているからである。
たとえば、ある宗教法人の代表役員を務める住職が、衰退する寺の運営を諦め、その法人格を売りに出したとしよう。宗教法人には法人税や固定資産税の免除規定があるが、その認証を受けるためには自治体からの厳しいチェックを受ける必要がある。
だが、売りに出された法人格を手に入れれば、面倒な認証を回避して免税の特典を手に入れることができてしまうのである。
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