ロシアとウクライナ「民族の起源」巡る主張の対立 ウクライナと呼ぶようになったのはなぜなのか

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18世紀後半、女帝エカチェリーナ2世は黒海方面へと進出し、オスマン帝国からクリミア半島を奪います。

クリミア半島は黒海の制海権を握る上で重要な戦略拠点でした。ロシアがクリミア半島を得たことで、ウクライナ支配が確立し、北のバルト海と南の黒海をつなぐ物流動脈が形成され、交易が活発になり、国力を急速に増大させます。

先述したように、エカチェリーナ2世は1773年、カザフスタン地方のコサック首長プガチョフの反乱を鎮圧し、中央アジア北部をロシアの支配圏に入れます。

ウクライナはピョートル1世とエカチェリーナ2世によって、従属させられました。そのため、ウクライナ人は「われらを拷問したピョートル1世、われらに止めを刺したエカチェリーナ2世」と2人の皇帝を形容します。

ピョートル1世はウクライナ語を禁止します。ウクライナを「小ロシア」とする呼び方はこの時に定着します。「小ロシア」はウクライナをロシアの従属地域とする蔑称としての意味が込められています。

エカチェリーナ2世はウクライナ語禁止政策を引き継ぎ、帝国の行政統治をウクライナに徹底し、ロシア化を推進していきます。

ウクライナから中央アジア北部に分布していたコサック勢力はロシア人によって支配されますが、彼らの勢力は完全に消滅したのではありません。コサック集団は中央のロシア帝国に不満を持つロシア人やウクライナ人やモンゴル人などの非ロシア人の逃亡先となり、帝国の辺境にあって、半ば独立した勢力となっていました。

ウクライナ人への差別

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ウクライナは肥沃な穀倉地帯で、小麦を豊富に産出していました。ロシア人はウクライナ人を農場で強制労働させます。ロシアには、「農奴」と呼ばれる奴隷的な農民階級があり、多くのウクライナ人が農奴に貶められて、搾取され、差別されたのです。

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ウクライナ人の民族運動が活発化しますが、ロシア帝国は出版や新聞による言論を厳しく統制し、反抗的な者を容赦なく、シベリアへ流刑にしました。

この頃から、ウクライナ人たちは自分たちをロシア人と区別するため、「ルーシ」の呼称を改め、「ウクライナ」を用いるようになります。「ウクライナ」は中世ルーシ語で、「国」という意味があるとされます。しかし、ロシア人は「ウクライナ」を「国」とは解さず、「辺境」という意味であると主張しています。

宇山 卓栄 著作家

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うやま・たくえい / Takuei Uyama

1975年、大阪生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。代々木ゼミナール世界史科講師を務め、著作家に。各メディアで、時事問題を歴史の視点でわかりやすく解説。著書に『朝鮮属国史 中国が支配した2000年』、『韓国暴政史 「文在寅」現象を生む民族と社会』、『経済で読み解く世界史』(以上、扶桑社)、『民族で読み解く世界史』、『王室で読み解く世界史』(以上、日本実業出版社)、『世界史で読み解く天皇ブランド』(悟空出版)、『民族と文明で読み解く大アジア史』(講談社)など、その他著書多数。

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