運命に従って豊田章一郎氏が示した「2つの決断」 トヨタ自動車の「社長」は当然なるものだった
この頃、トヨタはもう一つの大きな経営課題、アメリカ進出を抱えていた。前年1980年に表面化したアメリカのフォード社との提携交渉は決裂。当時の世界最大手、ゼネラルモーターズ(GM)との話し合いが水面下で始まっており、記者の私も水面下の交渉に参加していた。英二さんはGMとの交渉に専念していた。トヨタのグローバル化の道筋を整えたうえでバトンを渡そうとしていたのだ。
自然の成り行きのごとくトヨタの社長になった章ちゃんが、自らの意思で手を伸ばしたのが「財界総理」である経団連会長の座だ。
石田さんが「財界活動は暇なやつがやることだ」と公言していたこともあり、日本有数の大企業になってからも、トヨタは財界活動と距離を置いていた。それではいけないと英二さんが経団連の副会長になったのが1984年のことだ。このときは日産自動車会長の川又克二さんが自動車業界枠の副会長だったので、英二さんは中京財界枠とした。
英二さんの後を継ぐ形で経団連副会長を務めた章ちゃんは、1994年に東京電力出身の平岩外四さんの後任として経団連会長に就くことになる。しかし、もともと平岩さんの後任はソニーの盛田昭夫さんが大本命で、ほぼ決まりかけてもいた。その盛田さんが病に倒れたのだ。
今となればトヨタから経団連会長が出ることに何の不思議もないが、当時は違う。日本企業で断トツとなっていたため、財界の一部からトヨタ待望論はあったものの、東京の財界でのプレゼンスはまだ低かった。
人の悪口を言っているのを聞いたことがない
経団連会長となれば、自動車だけではなく、経済全般から政治、芸能、文学まで幅広い付き合いやコメントを求められる。まじめで、どちらかというと口下手な章ちゃんがどう考えるのか。英二さんに相談したうえで、章ちゃんに経団連会長の意欲があるか尋ねると「やってみたい」との答えだった。
結局、見事に経団連会長を務めあげたのはご存じの通りだ。「俺が、俺が」ということはなく、優秀な周囲の人たちをうまく使ってみせた。それはトヨタの経営者としても同じだった。社長を譲った実弟の豊田達郎さんが病で退任を余儀なくされると、後任社長に奥田碩さんを据えた。奥田さんはトヨタを改革し、グローバルに飛躍させた。過激な奥田さんが存分に力を発揮できたのは、章ちゃんの支持があったからだ。
章男さんが社長になった後も「引き続きよろしくお願いします」と謙虚な姿勢は変わることがなかった。人の悪口を言っているのを聞いたこともない。神輿になれる、なりきれる人だった。ああいった器の大きい人はもう現れないと思う。今ごろは空の上で敬愛していた英二さんと自動車の話でもしているのだろう。
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