運命に従って豊田章一郎氏が示した「2つの決断」 トヨタ自動車の「社長」は当然なるものだった
豊田章一郎さんはよい意味で本当のボンボンだった。誰に対しても丁寧で謙虚な方で、一介の新聞記者である筆者が「章ちゃん」と呼んでも嫌な顔ひとつせず、いつも丁寧に応対してくれた。ただし、取材対象としては難しい相手でもあった。何かを聞きに行ってもいつもとぼけられてしまった。「お前のほうがよく知っているだろう」と顔に書いてあった。
もっとも、苦労知らずに育ったわけではない。戦後は親戚が営む北海道のちくわ工場で現場作業も経験しているし、社会人としてのスタートはトヨタ本体ではなく、ユタカプレコン(現トヨタT&S建設)だった。
父でトヨタ自動車創業者でもある豊田喜一郎さんが1952年に亡くなると、その直後にトヨタ自動車工業に取締役で入社することになる。まだ27歳だった。
このときのトヨタ社長だった石田退三さんも、トヨタの中興の祖である豊田英二さん(豊田喜一郎のいとこでトヨタ自動車工業社長・1967年~1982年)も、喜一郎さんへの恩返しとしていずれ章ちゃんを社長にするつもりだった。本人もそのことは十分に認識していた。章ちゃんにとってトヨタの社長の座は、なりたいとかなりたくないではなく、当然なるものだった。
工販合併に「大丈夫」とレポート
トヨタ自動車工業で副社長になっていた章ちゃんがトヨタ自動車販売(自販)の社長に就くのは1981年のことだ。「自販」は、トヨタがドッジ・ラインによる経営危機で製造部門(トヨタ自動車工業=自工)と販売部門(自販)を分ける「工販分離」で生まれた兄弟会社である。国内販売競争が激化する中で「工販合併」が経営課題となっていた。
自販の初代社長で「販売の神様」と称された神谷正太郎さんが半年前に亡くなっていた。とはいえ、分離から30年以上経っている。英二さんは自販社長に就く章ちゃんに工販合併が可能かどうかのレポートを求めた。年末に「大丈夫」というレポートを出したことで、工販合併とトヨタ社長交代が事実上決まった。英二さんの中で次の社長は決まっており、「工販合併したらお前が新生・トヨタ自動車の初代社長だぞ」と言っていた。
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