そのころ、或る学友から、同人雑誌を出さぬかという相談を受けた。私は、半ばは、いい加減であった。「青い花」という名前だったら、やってもいいと答えた。冗談から駒が出た。諸方から同志が名乗って出たのである。その中の二人と、私は急激に親しくなった。私は謂わば青春の最後の情熱を、そこで燃やした。死ぬる前夜の乱舞である。
共に酔って、低能の学生たちを殴打した。穢れた女たちを肉親のように愛した。Hの箪笥は、Hの知らぬ間に、からっぽになっていた。純文芸冊子「青い花」は、そのとしの十二月に出来た。たった一冊出て仲間は四散した。目的の無い異様な熱狂に呆れたのである。あとには、私たち三人だけが残った。三馬鹿と言われた。けれども此の三人は生涯の友人であった。私には、二人に教えられたものが多く在る。
(太宰治「東京八景」『走れメロス』新潮文庫より引用、新潮社、1967年)
2人とは、山岸外史と、檀一雄のことだった。「死ぬる前夜の乱舞」としてやることがそれかい、と苦笑したくなるような文章ではあるが、実際に太宰にとってこの友人たちの存在は大きかったらしい。
といっても太宰と山岸の関係はさわやかというよりも、かなり濃い。
ずいぶんあぶないところにきていた交友関係
ここからは山岸の書いた太宰についての回想録『人間太宰治』を読んでみよう。
例えば、妻の不貞が発覚し、太宰がショックを受けたときのこと。山岸のアパートに一緒に帰った太宰は、突然バタバタと畳を蹴り始めた。そして太宰は叫んだのだ。
「ヤマギシ君。殴ってくれ。殴ってくれ。おもいきりぼくを殴ってくれ」
と、唸るような、叫ぶような声で、頭をかかえたままぼくにそういった。ぼくは、この声で、ピインときたのである。太宰の頭脳のなかには、コトバにならない激烈な苦悩があることがわかった。(中略)
けれども、ぼくは、この苦悩には烈しい痛覚が要ることもわかったのである。こういうときには衝撃が要るものだ。ぼくは一方では、仏蘭西の二人の詩人、ラムボーとベルレーヌのあのこみいった友情さえおもいうかべていた。不潔を感じたりしたものだが、やがて、ぼくは、太宰を痛烈になぐろうと決心したのである。(ぼくは、衆道めいたことは厭だった。ここには倫理の限界があると思っていた。)(中略)
「よし。おもいきりやるよ」
「思いきり、思いきり」
(山岸外史『人間太宰治』ちくま文庫より引用、1989年)
なんというか、濃ゆい。令和のドライな現代人からすると、これをアパートでやってた文豪たち、なんというか、熱いな……と頭をかいてしまう。
そうして山岸がやったことといえば、「仰のけになって眼を閉じている太宰の腹部のうえに跨がって、仁王立になった。ぼくは、わりと腕力はつよい方だが、そのときぼくは、すこしの手加減も加えなかった。手加減を加えることが、すでに、不潔なような気さえしていたのである」と書いてあるのだから……濃い。濃すぎないか。
そして殴られた太宰は、「もう一度」と叫びながら、いきなり山岸の小指を噛むのである。山岸は「太宰とぼくとの交友が、ずいぶん、あぶないところにきているような気がしていた」と回想する。
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