目白駅、閑静な住宅街にたたずむ「孤高の存在」 目黒と「同期」、山手線で3番目に少ない乗車人員

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目白という地名は「江戸五色不動」の1つ、目白不動尊に由来する。現在の文京区関口にあった新長谷寺の本尊だが、寺は戦災で焼失。不動明王像は豊島区高田の金乗院に移されている。最寄り駅は都電荒川線の学習院下だ。

一般的に目白が指す範囲は広く、神田川が刻んだ深い谷の北側に広がる台地の全体。江戸川橋付近を東端とし、現在の町名では目白台、高田、雑司が谷、目白、下落合付近までの一帯である。日当たりがよく、眺望にすぐれた高台であるため、明治維新以降、華族や実業家の邸宅が建ち並び、今日の高級住宅街の下地を形作った。

目白不動尊
現在の目白不動尊(筆者撮影)
目白駅南側の崖と谷
目白駅の南側は急な崖と深い谷になっている(筆者撮影)

山手線の内回り電車は池袋を発車すると下り坂を進み、線路が堀割の中に入って目白に到着する。目白駅の南側では高い築堤の上を走り、できるだけ水平を保つようにして神田川を渡る。明治初期の弱い蒸気機関車の力に応じて、谷を渡って高田馬場へと至るため、勾配をゆるやかにするよう取られた線形だ。

手狭な目白駅の敷地

駅の敷地は広くはなく、1面だけのホームも手狭な感じがする。しかし、開業時からまったく同じ位置で営業を続けている。沿線は純農村地帯であったにもかかわらず、なぜこんなに狭いところにわざわざ駅を作ったのか。疑問も湧いてくる。

改札口を出ると目の前を目白通りが山手線をまたいでいる。この道筋は古くは清戸道と呼ばれ、江戸川橋と現在の清瀬市を結ぶ道路であった。明治に入ると交通量が増え、重要な幹線道路と見なされるようになった。そこで鉄道の計画が持ち上がった際、交差する地点に駅を設けるよう、活発な運動が行われたのだ。中山道と交差する巣鴨駅や板橋駅と同じような設置理由だ。

だが、計画当初から駅用地には問題があったことがうかがえる。開業時の駅舎は清戸道から急な坂を下った、現在の山手線ホームや線路がある位置に建てられた。2020年に設けられたばかりの駅前広場と坂道の下を結ぶエレベーターの脇に、モニュメントとして階段の一部と説明板が設置されている。以前はここに使われていない階段があり、駅舎が崖下にあった頃の名残となっていた。

目白通り
明治時代にはすでに幹線道路だった目白通り(筆者撮影)
目白駅の階段のモニュメント
目白駅の歴史を表す階段のモニュメント(筆者撮影)
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