子どもが否定されたと感じる「一発アウト」の言葉 「聞いてあげている」つもりでも口を挟んでいる
宮口:では、どうすれば自分を正しく知る力を養うことができるのか。効果的なのはグループワークですね。数人のグループで互いを観察していると、だんだん自分がどんな人間であるかがわかってくる。そのプロセスを経験させることがポイントです。繰り返すうちに、自分のなかに「人を見て自分を知る」仕組みが構築されていくはずです。
明治以降「自分」という存在を考えるように
養老:たしかに自己評価というのは、非常に難しい。ロビンソン・クルーソーなら、自分はあってもなくてもいいけれど、社会では他人があるから自分もある。だから自己評価が必要になってくるのでしょう。
もっともこの間会った禅宗のお坊さんは、「仏教には、自分なんかありません」と言っていました。とはいえ「無我」というのは、「自分という実体はないけれど、関係のなかで認識できる」ことを意味しますから、「人を見て自分を知る」のは理にかなっていますね。
それにしても日本では、明治維新以後に急に自分という存在が表面に出てきた感があります。どうしてかな、と考えていて、これは一神教の世界の影響かもしれないと思い至りました。この世の終わりに神さまがすべての人を裁く「最後の審判」というのがあって、それゆえに生まれてから死ぬまでのすべての行動を背負っている「自分」が存在していなければならない。そうでないと、審判が受けられないからです。
生きている間はずっと、「自分とは何者であるか、何を考え、何をなすべきか」を考えざるをえないんですね。本当は、自分のことなんかあんまり考えないほうが、ハッピーでいられるような気もします。でも、宮口先生がおっしゃるように、罪を犯した場合は、つらくても自分と向き合わなければならない。
宮口:そうですね。罪を犯した、悪いことをした「自分」は、こういう悪いところのある人間なんだと向き合ってもらわなくてはいけないと思っています。そうしなければ、更生しようという動機付けが生まれません。
養老:旧来の日本の共同体では、共同体のメンバーがある程度自分をなくして世間のルールに従っていました。非行少年が反省をしづらいのも、日本人は「自分」という存在が中途半端にしか確立されていないからかもしれません。
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