ネイマールに"惚れ"ブラジルに渡った彼のその後 「自分時間」を生きてW杯選手らの語学講師に
ネイマール選手への興味は尽きず、2011年12月、横浜国際総合競技場で開かれた「FIFAクラブワールドカップ ジャパン 2011」の決勝、サントスFC対FCバルセロナ戦で初めてプレーを直接、観た。
そして、その感動とうれしさから勢いで「大学を卒業したらブラジルへ移住する」と決めてしまった。移住して生活するあてはない。ただサントスサポーターと一緒に応援しているうちに「ブラジルに呼ばれている気がした」のだった。
人生を手作りする感覚を
どうして、そのような一見、突拍子のない決断をしたのだろう。「自分は基本的に警戒心が強いし、自然と防衛本能も働くタイプ。だから、怖いと思うものからは本能的に逃げてきました。あのとき、大学卒業を前に怖いと思ったのは、既存のレールから外れることではなく、納得できないまま流されてしまうことでした」。
在学中にリーマン・ショックが起き、大企業に就職したら一生安泰、という考えはもはや幻想だと気づいていた。「年功序列や終身雇用など“20世紀的価値観”を頼りに就職したら、将来、どうやって自分の子どもに厳しい世界を生き抜く術を教えられるだろう。僕はたとえ失敗しても“人生を手作りする”感覚を身につけた大人になりたかった」。
大学を卒業できるめどがたった2012年2月、移住の可能性を探るため、単身、ブラジルへ渡った。現地をリサーチする中で、サントスFCの本拠地を訪問。スタジアム見学をしながら、話を聞いてくれそうなスタッフを見つけ、日本向けの広報について自分のアイデアを伝えた。
その熱意が通じたのだろう。最終的には広報のトップにつないでもらい、見事、広報担当者として採用された。ただビザの関係で現地に住むことは叶わず、故郷の鳥取に戻って、仕事はリモートで担当することとなった。
広報の仕事と並行し、主に地元の高校生を対象に「リベラルアーツの学び場」も作った。やがてサントスFCの仕事は直属のボスが退職したタイミングで終了したのだが、ネイマール選手との縁は続き、彼がFCバルセロナに移ってからも、来日する際のアテンドや通訳を任されるようになった。
「ネイマール選手はシャイだけれど、自分の中に世界を持っているタイプ。あるときパーティー会場でマネジャーが失くした携帯電話を、床を這いつくばって必死に探していた姿を覚えています。それぐらい、いつも周囲の人を大切にしていました」
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