巨匠パク・チャヌク「別れる決心」で深化した真相 ミステリアスな愛の在り様を描いた「大人の映画」

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(写真/トヨダリョウ)

インタビューを終えて/樋口毅宏

目の前にいるのが、あの世界的監督とわかるまでほんの少し時間を要した。2000年の『JSA』はもちろん、テキストにある復讐3部作、それ以降も彼の作品はすべて劇場で観てきた。特に『オールド・ボーイ』を観た夜は、ショックのあまりうなされてしまった。

この世を焼き尽くすほどの怒り、絶望、悲しみをスクリーンに叩き付けてきた男とは何者なのか。見上げるほどの巨人を予想していたが、それはいい意味で覆された。現れたのは自分より小柄で、物腰柔らかな男性だった。気負いも承認欲求もなく、それどころかある種の諦念に支配されたように見える。まるで映画に命を捧げ、映画に魂を吸い取られたような目をしていた。

「私自身は映画と音楽が好きなだけで、これといった趣味もない、平凡な人間です」

話を聞いていても、とてもこの穏やかな紳士が、あの恐ろしい作品群を紡いできた人物だとは、疑わしくなるほどだった。

パク・チャヌク監督はこちらの不躾な問いにも忍耐強く耳を傾けて、ひとつひとつ誠実に答えてくれた。新作のパブリシティとはいえ3日間で40本以上の取材を受け、疲労の極地にいたはず。私たちの取材がオーラスで、その後すぐに韓国に帰国するとのことだった。

パク・チャヌク監督は僕の目を見て、にこやかに話す。彼の表情に、ある一節を思い出していた。

〝仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して始めて解脱を得ん〟

言わずと知れた「臨済録」だが、パク・チャヌク監督に重なって見えた。徹底的にやるべきことをやらなければ悟りなど開けない。

金と名誉と女のために生きるだけでは自尊心を満たせるわけがない。

何のために生きるか。なぜ生きるのか。それを知っているからこそ、パク・チャヌク監督は何もかも燃焼し尽くした男の目をしていた。

我々の取材を終えると、その場に帯同していたスタッフが万雷の拍手でパク・チャヌク監督を労った。まるでこの喝采がおよそ2カ月後のアカデミー賞へと続いているように見えた。赤絨毯もないホテルの一室による幻覚。その奇跡を起こしているのは、映画にすべてを捧げた男の由縁からか。

その小さくて大きな背中を私は見送った。いつかの再会を誓って。

(文/井上真規子 写真/トヨダリョウ 編集/森本 泉(LEON.JP))

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