バルト3国の1つ、ラトビアにリガという町がある。この町は、旧ソ連の残影が残る町だ。中央駅の近くに市場が並ぶ、そこではロシア語が飛び交っている。ラトビアにはラトビア語がある。ロシア語は公用語として認められていない。
バルト3国の小さな国で、ロシア語を主に話す地域はロシアに接する地域に集中しているのだが、ロシア語の人口は多い。しかし、公認されていない。ソ連時代を払拭する必要があるためだが、ロシア語の大学もないので、ロシア語に固執する限り公職につける可能性が低く、市場で仕事をするしかない。
ここからサンクトペテルブルク行きのバスが出ているが、数時間で到達する。この街が近づくとロシア語地域だが、隣のエストニアでもロシア語はマイナーだ。それは南のリトアニアでもそうだ。リトアニアには、旧ソ連時代に各地にあったマルクスやレーニンの石像を集めた野外博物館がある。なぜかこの博物館の中だけは、ロシア語が共通語だ。
言語を捨てないと飯を食えない
言語というものは、近代国民国家にとって重要な構成要素だ。ソ連が崩壊し、あちこちでそれまでの民族語が復活し、それぞれの国での国語となった。それまで国語だったロシア語を押しのけてしまったのである。しかし、そこに住むロシア人にとって国語を捨てるのは、簡単ではない。
しかし、言語学者の田中克彦氏は『言語学とは何か』の中で、マイナーとなった言語を絶滅に追いやる方法について、こう語っている。「方言や民族語を放棄させる最も大切で決定的な施策は、このような方言や民族語を話していては、自分自身にも子供にも未来がないだけでなく、はずかしいことだという感覚を深く植え付けさせることである」(岩波新書、1993年、177ページ)と。
国語や標準語というものは、まさにそうした意味でその社会で出世するための道具であり、その道具をつかむことで未来が開けるのなら、方言も民族語も捨てるしかない。かくいう私も地方の方言を捨てた人間だ。もうその言葉をわずかしか話せない。
にもかかわらず、自分の体の中にしみこんでいるものは出身地の言語だ。怒ると方言が突然出てくる。確かに、方言を失えば「さまよえるユダヤ人」になるしかない。
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