「ポジティブ思考は危ない」禅僧が断言する理由 「生きている意味」なんて見つけなくてもいい

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これから何が起こるのかわからない恐怖と感覚。それを、今も鮮明に覚えています。自意識の固まらない3歳頃からそのような体験を繰り返してきた私にとって、「生」よりも「死」のほうが圧倒的にリアルだったのです。

そんな自分の中には、「これが自分だ」「これが生きていることだ」と言えるような、確固たる実感が何もありません。「なぜ生きねばならないのか」「自分とはなんなのか」。それは、子どもとはいえ切実な問いだったのです。

そのような子ども時代、生きることへの強烈な不安を決定づけた体験があります。小学校低学年の頃、週に一度の通院を翌日に控えた日の夕方でした。

帰宅して、「明日は病院か」と思ったとき、なぜ母は自分を病院に連れて行ってくれるのだろうと、ふと疑問に思ったのです。

「生きる意味」は見つけなくてもいい

もし、「お母さんは、明日あなたを病院に連れて行くのは嫌だからね」と言われたら自分ひとりでは通院できないし困るなと、私は子ども心に考えました。

そして、思いました。

「それにしても、なぜあの人は僕の親なんだろう。『あんたの親は、もうやめた』と言われたらどうすればいいんだろう」

そう考え始めると、止まりません。

本当は世の中はすべて、単に「約束事」で成り立っているだけで、誰もそれに気づいていないから平気で普通に暮らしているだけなのではないか……。

こう気づいたとき、言いようのない怖ろしさが襲ってきました。それは今まで生きていた世界が、一気にひっくり返ってしまうと感じるほどの怖さでした。

以来、その恐怖は生きることに対する根深い不安となって、心の中に居すわるようになりました。

思春期になってもその感覚が去ることはなく、当時の私は、今思ってもかなり切羽詰まった状態にありました。なぜ生きているのか、自分というものの意味はなんなのか。手当たり次第に本を読み、思索を巡らせ、「これは」と思う人に訊ねました。しかしどの大人も、どの書物も、納得できる答えはくれませんでした。 

そして中学3年生のとき、教科書にあった平家物語の一文にある「諸行無常」という言葉に出会ったのです。

一般的に言えば、この「諸行無常」とは、「この世のすべての物事は変化していく」ことだと解釈されます。しかし、私が感じ取った意味は違います。

生きること自体に意味などない。

自分の存在には確かな根拠がない。

人の存在には確固たる根拠などない。

2500年前に釈迦が残したこの言葉は、そう教えてくれました。

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