「ポジティブ思考は危ない」禅僧が断言する理由 「生きている意味」なんて見つけなくてもいい
私には、悩んでいる人たちが、「ネガティブ」「うまくいかない」などの言葉を自分に貼りつけた時点で安心して、考えることをやめてしまっているように見えます。
しかし、生きることへの違和感があるのなら、その「ネガティブ」や「いろいろ」の中身をきちんと考えなければ先へ進めません。
自分が何に困っていて、何が欲しいのか。
自分がどんな状況にいて、どう変えたいのか。
それを見極めるためには、置かれた状況を冷静に見て具体的に考えていく根気が必要です。
今、人生の問題を解決するとうたう本や情報は、あふれています。
しかし、人生は複雑なものです。人はそれぞれ環境も条件も違います。
問題が一発で解決することなどあり得ない
考える手間を省いて、出来合いのノウハウをあてはめようとしても、うまくいくはずがありません。即効性を期待して、インスタントにやろうとすればするほど、失敗します。
残念ながら、何十年もかけて自分の中で育ってきた問題が、一発で解決することなどあり得ないのです。
たとえば、坐禅体験を一度しただけで、悟りを開けると思う人はいないでしょう。プチな修行ではプチな結果しか得られないように、インスタントな解決を求めれば、それなりの成果しか出ないのは当然です。それでも、どうにかしたい状況があるのなら、自分が「これは!」と思ったことを実際に試し、少しずつ修正していくしかありません。
それは面倒なことでしょう。
ただ、手間と時間と根気をかける価値はあります。
手間暇をかけたからといって、問題が解決するとは限りません。
また、やり続けるにはストレスもかかります。
しかし、それでも続けていくうちに、問題をなんとかいなして感情をなだめ、「自分がやるべきこと」を見つける道筋は見えてくるはずです。
問題や感情に振りまわされて、ストレスを感じるのか。
手間暇をかけることに、ストレスを感じるか。
生きていくうえで、どちらを選ぶのかという話です。
「損得」を棚上げにして、できることはやったのだという「納得」が得られるまで持ちこたえられれば、私は上出来だと思います。
私にとって、「自分とは何か」と問うことは、ずっと心のど真ん中に居すわり続けていた問題でした。なぜ私が、このように「自分」の存在について考えるようになったのか。
小児ぜんそくで、幼い頃から入退院を繰り返してきたことが大きかったかもしれません。
激しい発作に襲われると絶息状態に近くなり、目の前が真っ赤になります。そんなとき、子ども心に「もう、死ぬのかな」と何度も思いました。
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