野田元首相が今語る「12年党首討論→解散」の本音 結果は惨敗、それでも論破より合意を優先した訳

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野田佳彦元首相
野田佳彦元首相の本音に迫ります(写真:尾形文繁)
参院選遊説中に、凶弾に倒れた安倍晋三元首相。その追悼演説を引き受けたのが、野田佳彦元首相だ。10月25日の衆院本会議で行われ、終了後も議場の拍手が鳴りやまず、与野党を超えて称賛する声が相次いだ。
野田氏と安倍氏は1993年の衆院選で初当選した同期であり、民主党政権だった2012年には2人の党首討論をきっかけに衆院解散、総選挙が行われ、自民党が政権に復帰した“因縁”もある。
野田氏はなぜ「解散」を選択したのか、それから10年経った現状について、慶應義塾大学の井手英策教授が本音を聞いた(インタビュー日は11月18日、全3回の1回目/第2回第3回はこちら)。

一致点を見いだすための討論だった

井手:まず、安倍晋三元首相の追悼演説でも触れられていた、2012年11月14日の「丁々発止」の党首討論からの衆議院解散。そのときのことからお伺いします。

当時、消費増税を柱とする社会保障・税一体改革関連法が自民・公明との3党合意で成立し、近いうちに解散して国民に信を問わざるをえない状況でした。特例公債法を人質に取られ、一票の格差問題もあった。民主党からは続々と離党者が出て、野田降ろしも起きる。党も内閣も支持率は低く、選挙をすれば当然負けるだろうという雰囲気で、やはり結果は惨敗。

ご自身ではあの敗北をどう評価されていますか。

野田:党首討論で解散を明示し、その結果が大敗で、私は敗軍の将となリました。ですが、一人の政治家としてはそのことに悔いはないんです。

あのときはねじれ国会で、予算は成立しても、財源となる特例公債が発行できずにいた。結局、特例公債法が成立したのは11月16日、解散と取引したような形です。そのような状況だったので、あれは、一致点を見いだすための討論だったんです。単に丁々発止のやり取りをすればいいというものではなく、ケンカ別れするわけにもいかなかった。

井手:論破ではなくて、合意が必要だったんですね。

野田:その前の谷垣総裁との党首討論もそうでしたが、討論するのは合意点を見つけるため。平場ではだめなテーマ、交渉を続けても合意できないものをあえて取り上げ、トップ同士で腹を決めるためにやるんです。

社会保障と税の一体改革は、法律としては通っていた。ただ、国民に説明するには、国会も痛みを伴う改革が必要で、定数削減と議員歳費の削減についてずっと交渉を続けていたが、合意に至らない。あの討論で、解散を明示することによって、その約束を取り付けることができたんです。

安倍さんも、たじろぎながらも約束をしてくれましたので、これはもう解散だと。

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