命奪われた被害者遺族が作る「人型パネル」の意味 年内閉館「いのちのミュージアム」が果たした役割

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「キャンドルアートの祈り」の翌日、11月20日も「いのちのミュージアム」には遺族らが集まってきた。

田中豊さん(67)は、子ども2人のメッセンジャーを生み出そうとしていた。娘・美央さんと息子・泰基くんを亡くしたのは1998年。子どもたちを後部座席に乗せ、乗用車で首都高速道路を走っていたとき、渋滞に差し掛かった。その最後尾で停車していると、居眠り運転の大型トラックが後ろから突っ込んできた。娘12歳、息子7歳。別れはあまりにも突然で、あまりにも悲しすぎた。くじけずに頑張れという周囲の言葉もつらい。

遺族の苦しみは報われないが、すがるものも必要

田中さんは仕事を辞め、自宅に引きこもった。2人の死に向き合えないまま、買い物も人目を避けて夜にひっそり行く。そんな生活を1年以上続けると、今度は後遺症のリハビリとして始めたランニングに「考えずにすむから」と、のめり込んだ。

「(裁判で加害者の責任が問われても)遺族の苦しみは報われるものではないよ。でも、すがるものが必要。メッセージ展は延々と続く。だからよかった。救われた。(閉館するミュージアムが)どこに行っても、いつでも誰でも来られるような場所にしたいね」

メッセンジャーを仕上げる田中豊さん(左)(写真:穐吉洋子)

元教室で、田中さんの作業が進む。

各地で並行して行われるメッセージ展のためには、子ども2人の「分身」をもっと作らなければならない。型取りが終わると、次はメッセンジャーの足元に置く靴だ。2人が履いていた靴は長年の展示でさすがにくたびれている。

「成長に合わせ、大人サイズの靴を買おうかな」と言う田中さんに、鈴木さんが「それだと、メッセンジャーの写真と身長と合わなくなっちゃうから説明がいるよね」と返す。

田中さんはミュージアムが開館した2010年9月、自宅のあった東京都江戸川区から約70キロをマラソンで駆け抜け、オープニング・セレモニーに出席した。あれから12年。自らの手で生み出したばかりの、新たなメッセンジャーの肩に手を掛け、「感慨深いね」と笑顔で記念写真に収まった。

いのちのミュージアム内の常設ギャラリーの見学は11月で終了。年内に日野市内に事務所を移し、ギャラリーやアトリエを併設できる施設を探す。生命のメッセージ展は引き続き各地で開催予定。詳しくは、いのちのミュージアムHPへ。

取材:穐吉洋子=フロントラインプレス(Frontline Press)所属

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「誰も知らない世界を 誰もが知る世界に」を掲げる取材記者グループ(代表=高田昌幸・東京都市大学メディア情報学部教授)。2019年5月に合同会社を設立して正式に発足。調査報道や手触り感のあるルポを軸に、新しいかたちでニュースを世に送り出す。取材記者や研究者ら約40人が参加。スマートニュース社の子会社「スローニュース」による調査報道支援プログラムの第1号に選定(2019年)、東洋経済「オンラインアワード2020」の「ソーシャルインパクト賞」を受賞(2020年)。公式HP https://frontlinepress.jp

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