「ソ連崩壊」を1980年に予言していた本の凄い中身 小室直樹はソ連軍をどう分析していたのか
しかし、この反論に対しては、もう少し深く考えてから答える必要がありそうである。現在では、ソ連経済においても利潤原理はとり入れられてはいるが、そもそも利潤ということの意味が、ソ連と資本主義国においては大きくちがう。このことを理解するために、各社会における根本的“富”ということについて、考えてみたい。
ソ連と日本の“富”は、貨幣ではなく、市場占有率である
いかなる社会においても、富は種々様々な形をとるが、そのなかでも、とくに中心的となる形態があるものである。
中世封建の世の中にあっては、それは土地であった。この時代においては、土地を多く持っている人が富んだ人であり、すべての重要な派生的富は、土地によってつくり出される。これに対して、近代資本主義社会における根本的富は商品であり、とくにその交換価値の一般化としての貨幣である。近代資本主義社会においては、貨幣を多く持つ人が富んだ人である。すべての商品は、貨幣と交換することによって獲得される。資本主義社会では企業活動の動機となる利潤も、貨幣の形で表現される。
これに対し、社会主義社会においては、貨幣は根本的富とはなりえない。すでに述べたように、すべての商品が貨幣との交換によって得られるとはかぎらないからである。では、社会主義社会における根本的富は何か。社会主義社会では、生産は社会化され、生産手段は私有されることはない。企業が利潤をあげても、それは私有化されることはない。この点、資本主義社会――企業があげた利潤は、いったんは企業に帰属するが、それは配当という形で結局は個人に帰属する資本主義社会――とは根本的に異なる。
社会主義的生産が行なわれている社会の根本的富とは、企業の市場占有率(シェア)であると思われる。従業員にとっては、とくに企業トップにとっては、これこそ最大の生きがいであり、このためにこそ全力投入がなされるにちがいない。利潤といっても、企業を太らせるところに主眼があるのだから、要するにそれは中間的存在にすぎず、最大の動機は、企業そのものの拡大にあると思われる。
たとえ利潤が大きく、それにともなうボーナスが存在したとしても、私有財産の世襲制度が存在しない社会において、これが最終動機となるとは、とうてい考えられない。
この意味においては、日本の企業などは、資本主義的というよりも社会主義的なのだ。ある記者が、日本の企業トップと欧米の企業トップとにインタビューしたことがあった。彼らの誇りとするところは何か。欧米の企業トップの誇りは多額の配当をすることにある、ところが、日本の企業トップにとっては、配当などは結局はどうでもよい。彼らの最大の関心は、市場占有率を大きくすることであった。そのためにこそ、彼らは働くのだ。
日本は資本主義ではなく、じつは、仮面をかぶった共産主義(ディスガイズド・コミュニズム)の国であるといわれているが、もっともなことだ、といわなければならない。
社会主義国においては、企業の市場占有率(シェア)こそが根本的富であるとすれば、社会主義国にもやはり武器輸出の動機は存在する、といわなければならない。ソ連にも、死の商人は存在しうるのだ。ときには、ソ連という国家自身が巨大な死の商人ともなる。
ソ連の武器輸出は決して小さな量ではないが、それでも、ソ連の兵器産業の最大のお客は、ソ連国家自身である。この膨大な需要をまかなうために、ソ連の兵器産業は今やソ連最大の産業であり、世界最大ですらある。
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