私は、思わぬ展開にうろたえた。ただ拾った小石をちょっと自慢するはずが、この書斎に並ぶ石たちの所有権を、なぜか譲り受ける展開になっているではないか。なんだ、これ。「小石で訪れ巨石を得る」などという、新しいことわざが誕生した瞬間なのか。
私は呆然としながら、善一さんの家をあとにした。たぶん15㎏はある、「珪化木」を抱えながら。
「珪化木」の閃き
善一さんからいただいた「珪化木」は、ひとまず自室のPCの横に飾ってみた。う、うーん。収まりがいいような、ものすごく悪いような。
とにもかくにも、この石をむやみに処分することだけはできない。だって、これは善一さんが私に託した形見分けなのだ。いずれ善一さんが亡くなった時、私はこの「珪化木」を善一さんだと思いながら大切にしなくてはならないのである。……この石、色んな意味において、重い。
私は「お金がないことの不安」に常時悩まされているのに、そのうえ、「石があることの重圧」にまで悩まされなければならないなんて。人生とは、わからないものである。
そういえば、善一さんはこの石をマーケットで買ったと言っていた。もしかして、これ、売るとこで売ればけっこうな高値が付く、貴重な石なのでは? もしそうだとすれば、話は変わってくる。ガラスケースの石たちを譲り受けることだって、やぶさかではなくなる。
急に色めき立ち、ネットで情報を探る。オークションサイトやメルカリなどに、相当な数の「珪化木」の出品がある。
しかし、期待は外れ、「珪化木」はそこまで市場価値のある石ではないようだった。大きいものでも、だいたい1000円から3000円くらいで購入できるとのこと。私は落胆し、PCを閉じ、「珪化木」へ再び目をやる。
(まあでも、こんな無骨な石でも、3000円くらいの価値が付いたりするんだなあ……)
(ていうか、石の値段なんて、欲しい人の心持ち次第だったりするんだろうなあ……)
(たとえば、今日拾った石も、タイミングによっては、売れたりして……)
(…………、…………ん?)
小石たちを、売ってみてはどうか、自分。
そんな閃きが、急に現れた。
「なんの変哲もない石を売る」という行為のしょぼさ
その日から、私はあの河川で拾った小石たちをポケットに入れて行動するようになった。仕事などで出会う人たちにタイミングを見計らって、「どうです、この石。私が拾ったんです。言い値でよいので、買いませんか?」とセールスするためである。
最初はメルカリなどで売ってみようかな、と思ったのだが、それではなんだか徒労に終わる予感がした。
これは、ただの石なのである。どこにでもあるような、逃げも隠れもしない、ただの小石なのである。
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