私はポケットの中の石に願いを託していた。頼む、売れてくれ。そして私を、「真面目に労働するしかない」の呪いから、解いてくれ。
李さん一家の足音
石をポケットに忍ばせるようになって、2週間が経った。まだ、誰にもセールスをかけることはできていなかった。
「石を売りたい」。その祈りにも似た欲求だけが、自分の中で肥大していく。そんな自分が、なにかに重なった。
ああ、そうだ、『無能の人』だ。
つげ義春の作品『無能の人』には、生活に困窮し、ついには河川敷で石を売る漫画家が登場する。主人公であるその漫画家に対して、耐えきれなくなった妻は涙ながらに、こう訴える。
「お願いだから、こんなことはやめてよ……どうしてこんなことをするのよ……」
どうしよう、いまの私は、そのまま『無能の人』ではないか。つげ義春の世界の人ではないか。このまま私は、石が売れずに中古カメラ販売とかに手を出したり、清潔な商人宿に泊まろうとしたら貧乏くさい宿に泊まってしまったり、李さん一家に二階に住まれたり、川辺で「花だ! 紅い花だ!」と叫んだりすることになるのだろうか。
よし、あと3日。あと3日間のうちに小石が売れなかったら、もうこんなことはやめよう。ポケットの小石たちは、ジップロックに移してタンスの中に静かに保管しておこう。
そう思っていた、矢先のこと。
とある打ち合わせで、同い年の編集さんと出会った。その人は旅行やキャンプが趣味で、最近もボルネオのジャングルまで足を延ばしていたということが判明した。なかなかにアクティブな野外活動を展開している方らしい。
時は、来た
私もかつてボルネオを訪れたことがあったので、打ち合わせの後、あそこにいる虫や鳥、それに哺乳類たちがいかに魅力的であるかについての雑談に花を咲かせた。すると突然、編集さんはこんな質問を私に投げかけてきた。
「最近、どこかで野外活動はされましたか? おススメがあったら、教えてください」
……来た。
時は、来た。
よし、ここだ。このタイミングを逃してなるものか。
そして私は、一気呵成に喋った。最近、友人に誘われて河川岸まで石拾いに出かけたこと。そのアクティビティが思いのほか楽しかったこと。たくさんの「よい石」を持ち帰ることができて、非常に満足したこと。間を作らず、リズミカルに、簡潔に、しかし熱を込めて、喋った。
「へー! 石拾い! やったことないけど、楽しそうですね!」
食いついた。ここだ。私は間髪をいれずに、ポケットから小石たちを取り出し、そして今日までずっと温めてきたセリフを述べた。
「で、その時に拾った石たちがここにあるんですが、いまならこれを、ご希望のお値段でお分けしておりまして……」
しばしの間が流れた。それから目の前の編集さんは、こう叫んだ。
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