福岡「暴力団本部の跡地」で牧師が挑む"街の再生" 福祉施設をつくる「希望のまちプロジェクト」

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「日本は安全で豊かで、ある意味平等だと思っていた僕は、路上で人が死んでいく現実に唖然としました。自分は好景気のおかげで私立の大学に通っていたけれど、その裏では‟景気の安全弁“として使い捨てにされる日雇いのおじさんたちがいたのかと」

支援を訴える若かりし頃の奥田さん。困っている人とつながり続ける伴走型支援を大切にしている(写真提供:抱樸)

大学には最低限通いつつ、釜ヶ崎でのホームレス支援が生活の中心に。だが、どんなに支援しても状況は変わらず、無力感に苛まれることも。大学3年生になる頃には、キリスト教徒でいることの意味すらわからなくなっていた。

「僕は保守的な教会で育ち、お祈りすれば神様が必ず助けてくれると教わってきた。でも、現実はおじさんたちが目の前でどんどん死んでいく――。神様がいるんだったら何とかしろよと叫びたかった。こんなひどい世の中で、神様までいなかったら耐えられない。おじさんたちと神様を探すために牧師になろうと決めました」

「ハウス」があっても「ホーム」はない

1990年、牧師として赴任したのは福岡県北九州市の東八幡キリスト教会だった。かつて製鉄業でにぎわった北九州にも日雇労働者が多数いた。有志で炊き出しを始めて、夜になると路上生活者におにぎりを持っていき、横に座って、ひたすら話に耳を傾けメモを取り続けた。

「何が起こっているのか、何をなすべきか。彼らの話を聞かないと本当のところはわからないから」。彼らが路上で死にゆく現実に憤り、役所に「殺人行政」と抗議したこともある。

この時期、奥田さんは、今なお抱樸の礎になっている言葉に出合った。示唆を与えてくれたのは、中学生に襲撃されたホームレスのおじさんだ。全国でホームレスを襲う悪質な事件が後を絶たない。怒る奥田さんに、当事者のおじさんはふと言った。

「襲撃はやめてほしいけど、夜中に俺らを襲いに来る中学生は、家があっても帰るところがないんじゃないか。親がいても誰からも心配されていないんじゃないか。帰る場所がない、誰からも心配されない人の気持ちは、俺にもわかるよ」と。

「僕は雷に打たれたくらい驚きました。そうか、問題の本質はたんに外で寝ているかどうかではない。ハウスがあっても、ホームはない人がいる。そこから、1人にしない伴走型支援にこだわり、活動を展開してきました」

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