門司港、かつて「九州の玄関駅」として栄えた偉容 往時のにぎわい伝える大正期の駅舎を「復原」
それでは、門司港駅はどのような役割を果たしてきたのか。
現在の門司港駅である門司駅は1891年の開業。日本の鉄道初開業は1872年だから、それから約20年後ということになる。決して遅い開業とまでは言えないが、石炭の産出地としての重要性を考慮すると、門司港・筑豊炭田周辺の鉄道整備が後回しにされた印象は拭えない。
なぜ、門司駅は後回しにされたのか? それは、近代化を急いでいた明治新政府が遠い九州にまで手を回せなかったことが理由だ。明治維新後、政府は西洋列強に伍するべく富国強兵と殖産興業という2大スローガンに基づき近代化を推進したが、工業化は東京・大阪といった大都市から進んだ。そのため、九州に近代化の機運が届くまでに時間を要した。
九州における近代化の端緒は、現在の鹿児島本線にあたる私鉄・九州鉄道(九鉄)の開業だった。九鉄は1889年に博多駅―千歳川仮駅間を開業。そこから南へと路線を延ばしていく一方で、北にも線路を延ばした。その理由は、筑豊で産出する石炭を運搬するためだった。そして、1891年に門司駅が開業した。
同年、筑豊興業鉄道(現・筑豊本線および平成筑豊鉄道伊田線)が直方駅―若松駅間を開業。さらに門司築港会社によって門司港の浚渫・埋立工事が開始される。それに伴って門司港の機能は強化され、政府は特別輸出港に指定した。
これを機に、三井物産が門司出張所を開設。それを皮切りに同年には大阪商船(現・商船三井)が、翌年には日本郵船、そして1895年には三菱合資会社が、といった具合に海運や商社が次々と門司港周辺に出張所を構えた。そして、それらの出張所はすぐに支店へと格上げされていく。
異国情緒漂う貿易の街に
貿易は海外との交渉が必要になるため、相手に日本の技術力や文化度を見せつけるためにも出張所などの建物は洋風建築が採用される傾向にあった。こうした理由から門司港周辺は洋風建築が並び、異国情緒の漂う街並みになっていく。
採掘から運搬、そして販路までのルートが確立したことで九州の炭鉱業は軌道に乗った。それと同時に、作業の効率化・合理化が求められていった。それまで炭鉱作業は人力に依存していたが、蒸気機関の導入や発破の採用で採掘量は急増。炭鉱作業の機械化は、同時に北九州の工業化を促すことにもつながった。とくに、門司港周辺には鉄工所などが集まっていく。
門司に工場を構えた企業としては、浅野総一郎が率いる浅野財閥の企業群が筆頭にあげられる。浅野は東京・深川でセメント業を起業。その後は製鉄業や造船業などにも進出し、財閥を形成する。浅野は後に東京で操業していたセメント工場を横浜・川崎一帯の埋立地へと移転させるが、九州でも埋立地に工場を進出させるなど、工業との結びつきが強かった。
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