門司港、かつて「九州の玄関駅」として栄えた偉容 往時のにぎわい伝える大正期の駅舎を「復原」

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門司駅の移転拡張後も、門司港を取り巻く環境は刻々と変化していた。時代が昭和へと移ると昭和金融恐慌が発生し、対外貿易にも影響をもたらした。それは貿易で繁栄を築いてきた門司にも影を落とした。金融恐慌で輸出入が滞れば、門司市の経済も大きく落ち込む。市勢にもブレーキがかかる。

門司市は戦後の1963年に小倉市・若松市・八幡市・戸畑市とともに5市合併によって北九州市となったが、門司市はこの5市の中で最も早く1889年に市制を施行していた。それだけ早くから門司が発展していたことを裏づけているが、その原動力は門司港の貿易だったと言っていい。

復原前の門司港駅舎
復原前の門司港駅は、改修によって正面車寄せに庇があった=2010年8月(筆者撮影)

行政当局は、経済の起爆剤として港湾開発に取り組む。これには政府も協力的で、内務省が主導する形で大久保埋立地と呼ばれる一帯の開発が進められた。

大久保埋立地の開発では、物流を促進するために門司駅―門築大久保駅間の門司築港会社線が開業。さらに5カ月後には、門築大久保駅より先へとつづく農林(現・農林水産)省の専用線も開通する。翌年には貨物専用駅の外浜駅と葛葉駅(現在は廃止)が開設。門司港周辺の貨物機能が強化されていった。

戦時中のトンネル開業で「玄関口」譲る

貨物機能の強化は関門海峡間の物流だけではなく、中国・台湾・満洲・朝鮮との行き来も活発化させた。これらを物語るのが、門司駅の新聞発送量だろう。門司駅の新聞発送量は、1935年に大阪駅に次ぐ全国2位となる。これらは下関や北九州のみならず、前述した中国・台湾・満洲・朝鮮にも販路を広げた結果でもあった。

門司は貿易都市として発展していたことから、門司の住民や駐在員はとくに取引に関する情報・諸外国の動静に敏感だった。それを裏付けるのが、1892年に門司で創刊された日刊紙『門司新報』の存在だ。同紙は創刊から順調に部数を増やし、日露戦争後には発行部数を300万の大台に乗せたが、日中戦争の開戦で言論統制が強まったことや用紙不足が原因で1938年に廃刊された。

一方、門司市が強く望んでいた関門トンネルは、皮肉なことに戦時色が強まったことから陸軍の後押しもあって1942年に開通する。

しかし、地形的な面から門司駅にトンネルをつなげることはできず、海底トンネルの接続駅は近隣の大里駅となり、九州の玄関駅は同駅へと切り替わった。そのため、大里駅を門司駅に改称し、門司駅は玉突き的に門司港駅へと改称させられた。

これが影響し、時代を経るごとに門司港駅の重要性は低下していく。

次ページ物流での存在感は希薄になったが…
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