門司港、かつて「九州の玄関駅」として栄えた偉容 往時のにぎわい伝える大正期の駅舎を「復原」

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門司港駅復原後
2019年に復原した後の門司港駅。駅上部の大時計は創建時になかったが残された(筆者撮影)
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戦前期、主要都市の玄関駅はシンボリックな意匠を凝らした駅舎が多く建てられた。そこには「駅舎は街の顔だから、質素な駅舎では都市の風格を著しく低下させる」という理由がある。顔である駅舎がみすぼらしいと、地元政財界の沽券に関わる。こうした背景から、絢爛豪華な駅舎が競うように建てられた。

いくら絢爛豪華な駅舎でも老朽化には抗えない。時代とともに建築技術は向上するから、新たな駅舎へと建て替えられる際に意匠も設備も現代に合致したものへと変えられる。こうして、明治・大正期に竣工した駅舎は姿を消していく。

遺跡や神社仏閣といった歴史・文化遺産などを以前の姿へ戻す作業は、復元と復原のふたつの漢字があてられる。どちらも「ふくげん」と読み、意味も似ている。そのため、近年までどちらの作業にも復元を用いることが多かった。

簡単に説明すれば、復元は正確な資料や図面が残っていない遺跡のような構造物を再現することを指し、有識者が知見と経験を総動員して再現を試みる。一方、復原は「残された資料や図面から再現したモノ」と解釈されている。

「復原」された門司港駅舎

鉄道は明治に登場し、それから全国に広まった。当然ながら図面は残されていることが多く、ゆえに駅舎は「復原」であることが圧倒的だ。東京駅の赤レンガ駅舎は、2012年にドーム屋根が復原された。

資料が多く残っていれば復原は容易と考えるのは早計で、実際は一筋縄ではいかない。駅舎の復原で、東京駅と同じくとくに検討が重ねられた駅舎がある。それが福岡県北九州市の門司港駅だった。

開業当初、現在の門司港駅は「門司駅」を名乗っていた。後に、当初は「大里駅」だった駅が門司駅を名乗ることになり、駅名を譲った。駅名を譲ることは、ときに街の主役の交代を意味する。しかし、それまでの来歴を考えれば門司港駅が果たした役割は決して小さくない。鉄道当局や門司市にとって、大里駅を門司駅に、門司駅を門司港駅に改称することは苦渋の決断だったのかもしれない。

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