中央線で東京直結、八王子は昔「神奈川県」だった 山梨・横浜を結ぶ街道の要衝、鉄道でさらに発展
八王子は江戸時代から甲州街道の要衝地であり、物資の集散地として多くの人が行き交う宿場町としてにぎわった。明治維新を迎えて社会や産業構造が変化してもむしろ発展していく。その背景には、明治新政府が外貨獲得のために生糸の輸出を奨励したことがある。
養蚕業・製糸業が盛んな八王子は、富岡製糸場が立地する上州と開港場の横浜を結ぶルート上にあった。また、甲州・信州から横浜へと向かう際にも経由地だった。そうした要因から、生糸・絹の取引で活況を呈した。
東京よりも「横浜寄り」だった八王子
明治初期までの八王子は、横浜とのつながりが強い。実際、1893年までは神奈川県に属していた。東京府(現・東京都)に移管された理由は定かではない。町田や八王子の三多摩は、自由民権運動が盛んで反政府的な地域だった。その対応がおっくうになった神奈川県知事が東京府へ譲渡したとも、東京府の水源となっている多摩川流域が神奈川県に属することは管理上で不都合が生じたともいわれる。
また、1889年に新宿駅―立川駅で開業を果たした甲武鉄道(現・JR中央線)の存在も無視できない。
同区間を開業させた甲武は、半年も経たないうちに八王子駅まで延伸。立川駅―八王子駅間の開業が遅れたのは、多摩川を渡る橋梁の架橋工事に手間取ったからだ。甲武が開設した八王子駅は、現在の東京都八王子合同庁舎付近にあった。甲武が延伸開業したことにより、八王子から東京方面へと人と物が流れるようになり、経済的な結びつきは強まっていく。
政府は軍事・殖産興業の両面から鉄道網の拡大を急いでいた。1888年、陸軍はそれまでの鎮台制から師団制へと切り替わり、配置が変化した。東京・青山に司令部を置いた第1師団は、東京に所在する第1連隊と高崎に所在する第15連隊とに分けられ、さらに第1連隊の下部組織には麻布大隊区と横浜大隊区の2つがあった。麻布大隊区には神奈川県の一部が属したが、大半は横浜大隊区に属し、山梨県は全域が横浜大隊区に組み込まれた。
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