門司港、かつて「九州の玄関駅」として栄えた偉容 往時のにぎわい伝える大正期の駅舎を「復原」
それでも門司港周辺には工場が多く立ち並び、戦後も工業都市の面目を保った。1956年には外浜臨港線から分岐する麻生セメント線が開業。また、1960年には門司市が門築会社線を買収して田野浦公共臨港鉄道と改称。門司港の開発・発展に弾みをつけた。
しかし、5市合併により北九州市が1963年に誕生。翌1964年には、門司港駅と下関駅とを往復していた関門連絡船が運航を停止する。これにより、物流における門司港の存在感はさらに希薄になっていく。
不運が重なった門司港駅だが、鉄道・行政当局も九州財界も決して軽視していたわけではない。駅舎には天皇などの利用に対応した貴賓室があり、駅名改称後も駅舎・ホーム・周辺設備の管理は行き届いていた。1945年の門司市大空襲でも被害は軽微で、駅舎の状態は良好だった。
そうした理由もあり、官民が一体となって門司港駅を重要文化財へと働きかける機運が芽生えた。それらの運動が実を結び、駅は1986年に重要文化財に指定された。
当初なかった大時計は残し「復原」
門司港駅の重文指定は、鉄道史のみならず建築史・地域史・美術史などの観点からも大きなトピックとして注目された。門司港駅の指定は東京駅の赤レンガ駅舎や、1999年に廃止されながらも2004年に指定を受けた大社線の大社駅(島根県)よりも早く、モータリゼーションに押されていた鉄道業界を奮起させた。
しかし、課題も残った。というのも、門司港駅は1914年に同地で門司駅として開業したことは先述した通りだが、開業後に駅舎の改修を繰り返している。例えば、時計塔が追加されるなど外観も大きく変化している。つまり、創建時と重文指定された駅舎の姿が異なっているのだ。
そうした事情もあり、北九州市やJR九州は有識者会議を立ち上げて復原の検討を重ねた。その結果、復原は創建時の姿へと戻すことを基本方針と定め、2012年から工事を開始。1929年に設置された正面車寄せの庇を撤去する一方で、市民に親しまれているとの理由から1918年に取り付けられたとされる正面の大時計は残されることになった。
門司港駅の復原と前後して、北九州市は門司港駅から延びる貨物線跡を観光路線として活用する。同線はネーミングライツを導入。山口銀行がスポンサーになり、2009年にやまぎんレトロラインとして復活。2011年、地元密着の方針から山口銀行が北九州銀行へと独立・改称すると、愛称は北九州銀行レトロラインへと変更された。
門司港駅の復原は、2019年に完了。北九州市は駅と港を中心とした同地区一帯を門司港レトロと命名し、観光業での発展に期待を寄せている。
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