「ゴッホ名画にスープ投げ」を理解せぬ日本の欠点 かなり根が深い「想像力欠乏」状態の蔓延

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例えば、辺野古で何年も座り込みを続ける高齢の方がいても、私たちはまったくの無関心状態で暮らしている。別に、毎日気にしろといいたいわけではない。けれども、SNSでの「座り込みは24時間やってないと座り込みじゃありません」という投稿に、何十万もの「いいね」がついて、当事者の声を本土のマジョリティーが一瞬で吹き飛ばしてしまった。これも、本当に立場が弱い人たち、その人たちのささやかな頑張りや、普段の苦痛を考えることができない想像力欠乏状態が蔓延しているからである。

だから、『ぼくはウーバーで捻挫し、山でシカと闘い、水俣で泣いた』(KADOKAWA)で、私はマジョリティーの「学び直し」「学び捨て」の重要性を強調した。それは、最近、流行っている「ファスト教養」のような学びではもちろんない。

学びとは、自分が抑圧や搾取に加担し、苦しみを生んでいる責任があるということを認め、そのことへの告発や抗議に真摯に耳を傾けることだ。そして、自分が変わらなければならない。まさに、今回のジャスト・ストップ・オイルの抗議活動を前にしたイギリス人たちの反応が、「学び捨て」の一例である。

日本はマジョリティーが学ぶことをやめている

だが、日本にそのような経験は少ない。マジョリティーは学ぶことをやめている。そして、そのことが声を上げることへの負荷を高め、「沈黙する社会」を作り出している。だから、声を上げる際にも、社会運動の訴えはできるだけ対立を避け、マジョリティーの気分を害さないものにあらかじめトーンダウンしてしまっている。

これは、既得権益を手放したくないマジョリティーには都合がいい。切り取られたダイバーシティーやSDGs、エシカルのような言葉が「アヘン」として蔓延しているのは偶然ではないのだ。マジョリティーが自らの地位に安住しながら、「弱者」に対する理解があるフリができる最善の手段なのである。

とはいえ、私たちだって、つねに踏みつける側に安住していられるわけではない。例えば、日本国内では外国人に差別的であっても傷つくことなく暮らしていけるが、諸外国で自分がアジア人差別にあうこともあるだろう。また、今は健康な青年・壮年でも年齢を重ねれば身体機能が弱るし、何等かのきっかけで財産を失い明日の生活に不安を抱えるかもしれない。そのときに、気がつくはずだ。弱い立場に転じれば、自分も声を上げることもできず、苦しむということに。

それに、ひどい現実から目をそらすツケはあまりにも大きい。気候危機対策は進まない。格差や低賃金労働は放置される。人権や差別問題は蔑ろにされる。そうやってごく一部の既得権益が温存されるだけなので、イノベーションは起きにくい。

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