東日本大震災の記念施設で現代美術が果たす役割 南三陸町に仏美術家ボルタンスキーの作品

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町は2019年6月、東京の国立新美術館等での個展開催のために来日したボルタンスキーに直接制作を依頼。ボルタンスキーは快諾し、三陸海岸を実際に歩いて作品の構想を進めたそうだ。

想定外の事態だったのは、このプロジェクトが進んでいたさなかの昨年7月14日、ボルタンスキーが亡くなったことだ。町は、もともとボルタンスキーのプロジェクトを世界各地で進めていたアトリエ エヴァ・アルバランとともに、このプロジェクトを進めることになり、作品は完成した。

筆者は生前のボルタンスキー自身の講演会で、「私がもし死んだとしても、自分が決めたコンセプトで制作が行われることはありうる」という話を聞いたのをよく覚えている。コンセプトを記したものは楽譜のようなもので、演奏者(実行者)は別にいるといったような内容だった。南三陸町の作品では奇しくも、その考え方が生かされることになったのだ。

クリスチャン・ボルタンスキー「MEMORIAL」より(撮影:小川敦生)

それにしても、震災とは直接関係のない現代美術作品をメモリアル施設に設置することに意味はあるのだろうか。それは、作品の本質が「風化」しないことにあるのではないかと筆者は考える。新しい物は放っておけばたいていは風化する。人間は忘却の動物ゆえ、当事者など被害に直面した者でなければ、記憶も薄らぐのが常だ。つらい記憶はあえて記憶の底に封印するという人も多いだろう。

美術作品はその多くが「物」だが、仮に表面が経年劣化したとしても、コンセプトと芸術性は生き続ける。だからこそ、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」もフェルメールの「牛乳を注ぐ女」も、魅力と輝きを発し続けるのだ。ボルタンスキーのビスケット缶は、表面をあえて風化させることで、鑑賞した人それぞれの中で風化しかけていた記憶を手繰りだす。そんな力があるように思うのだが、いかがだろうか。

川を挟んだ向こう側には、佐藤仁町長が東日本大震災で被災した防災庁舎の鉄骨が見える。(撮影:小川敦生)
「南三陸311メモリアル」外観(撮影:小川敦生)
小川 敦生 多摩美術大学教授

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おがわ・あつお / Atsuo Ogawa

1959年生。東大文学部美術史科卒。日経BPの音楽、美術分野記者、『日経アート』誌編集長、日経新聞文化部美術担当記者などを経て、2012年から現職。近著に『美術の経済』。

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