「永遠に工事中」横浜駅の位置は3度も変わった 初代駅は行き止まり式、「横浜飛ばし」の列車も
当時、京浜東北線・根岸線は存在しない。横浜飛ばしの対抗手段として、実業家たちは鉄道を引き込むべく互いに出資金を出し合って横浜電気鉄道(横浜電鉄)を設立する。これは電気で走る、いわゆる路面電車で、1904年に神奈川―大江橋(後の桜木町)間を開業。翌年には関内を通り抜けて元町まで延伸した。
この路線網拡大の推移を見ても、横浜の中心は桜木町・関内エリアだったことがうかがえる。だからこそ、横浜の政財界人たちは鉄道当局が東海道本線の駅を街の中心部から離れた場所へ移転させたことに納得していなかった。
横浜の実業家たちを後方支援したのが京浜電鉄(現・京浜急行電鉄)だった。発足当初の京浜電鉄は大師電気鉄道という社名で川崎大師の参詣客を輸送する路面電車だったが、すぐに東京と横浜を結ぶべく社名を京浜電気鉄道(京浜電鉄)へと改称。1905年に品川―神奈川間が開業し、神奈川駅で横浜電鉄へと乗り継ぎできるようになる。京浜電鉄は前年に時速80kmで運転可能な電車を導入し、所要時間の短縮を図った。これが乗客争奪戦をヒートアップさせた。
2代目横浜駅の誕生
対抗して、東海道本線は新橋駅―横浜駅間を約27分で結ぶ横浜急行の運転を開始する。しかし、京浜電鉄は運賃が安く、運転本数も多かった。さらに神奈川駅では横浜電鉄と接続し、そのまま桜木町・関内方面へと乗り継げるので、東海道本線に勝ち目はなかった。
1912年には、新橋駅―下関駅間を走る特急列車が登場。その特急も平沼駅に停車したが、それでも横浜財界の不満は消えなかった。横浜政財界が鉄道当局に抱いていた不満が少しずつ緩和するきっかけになったのが、1914年の東海道本線複々線化だった。
1915年に横浜駅は東海道本線上へと移転。これが2代目の横浜駅となり、初代の横浜駅は桜木町駅と改称する。東海道本線は蒸気機関車による長距離列車と近距離の電車が走る路線となり、電車は京浜線と呼ばれるようになる。同線は2代目横浜駅から先は桜木町駅へと乗り入れた。現在の京浜東北線に該当するが、汽車の東海道本線に対して京浜線は電車だったので運転本数は多かった。
2代目の横浜駅は時代背景もあって駅舎は赤レンガ造となった。東京では万世橋駅や東京駅など、ターミナルとなる駅舎は赤レンガで建設されていた。これは日本が一等国であることを西洋諸国に示す目的があったことに由来するものだが、新たな横浜駅も同様の目的から赤レンガ造になった。
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