「永遠に工事中」横浜駅の位置は3度も変わった 初代駅は行き止まり式、「横浜飛ばし」の列車も

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こうして、横浜の街の中で少しずつ横浜駅の存在感は高まっていった。しかし、それも1945年5月の横浜大空襲によって大部分が灰燼に帰した。駅周辺の被害は甚大で、市民の足となっていた市電も戦災により77%が被災している。横浜市は被災直後から復旧に努め、戦後は市債を発行してそのスピードをアップさせた。

その成果もあり、1947年末には市電全線が復旧を完了した。横浜市が交通網の復旧を急いだのは市電が1日12万人以上に利用されていたためだが、そのほかにも理由があった。進駐軍が市街地の大部分を接収し、さらに横浜駅にはRTO(=Railway Transportation Office)と呼ばれる、進駐軍に便宜を図る鉄道輸送事務所が開設されたことだ。つまり、早期復旧は進駐軍のためだった。

戦後、横浜中心部は大部分が接収されたこともあり、自分たちの意志で開発を手掛けることはできなかった。都市開発は1952年4月に日本が主権を回復するまで待たなければならなかった。

相鉄が牽引した郊外発展と西口開発

一方、接収対象にならなかった郊外は、官民によって復興という名の開発が進められた。横浜市は復興総務課を新設。横浜財界も横浜復興会を設立し、後に横浜市長に就任する平沼亮三が会長に就任している。

これらの復興事業により、横浜駅から延びる横浜線・相鉄・東急の沿線を中心に住宅建設が進められていった。そのなかでも顕著だったのは相鉄沿線だった。相鉄は燃料・車両不足を理由に経営を東急に委託していたが、1947年に独立。複線化に着手するとともに、県内では唯一の建設省住宅供給代行業者の資格を取得して住宅事業を加速させた。

東急も、公職追放を解除されて現場復帰した総帥・五島慶太が先陣に立ち、後の多摩田園都市の萌芽ともいえる城西南地区開発計画に着手。こうした開発により、横浜駅につながる沿線で人口が増加し、駅の利用者は増加していく。

さらに横浜駅の巨大化を決定づけたのが西口の開発だった。西口は埋立事業によって造成された歴史的な経緯もあり、石油会社が所有していた。同地は資材置き場として使用していたが、相鉄が区画整理に協力するとの条件で入手。同社による開発で、西口は裏口然とした雰囲気が消え、それに触発されて国鉄側にも商業施設が立ち並ぶようになる。

相鉄横浜駅
かつて裏口然としていた横浜駅西口は相鉄による開発で大きく変貌した(筆者撮影)
相鉄7000系
相鉄線の横浜駅と電車(写真:tarousite/PIXTA)

さらに、相鉄は複線化の完成で手狭になったホームを拡張。にぎわいが増した駅ビルには老舗百貨店の髙島屋がオープンするといったように、連鎖的に西口・東口の双方が発展。駅は巨大化していった。

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