自分の信念のために嘲笑されたり、迫害されたり、汚名を着せられたりすると、その信念を守るために立ち上がろうという気持ちが強まり、仲間との連帯感も生まれる。あらゆる問題には、支配的な多数派と抑圧された少数派がいるように思えるかもしれないが、どちらの側も自分たちが敵に包囲され、窮地に立たされていると考えている場合もある。
目標の共有で、お互いの距離が近づく
友人のケルシー・パイパーはジャーナリストとして慈善活動やテクノロジー、政治など、世界の人々の幸福や健康に影響を与えるさまざまなテーマを追いかけている。ケルシーは無神論者だが、彼女の親友に敬虔なカトリック信者の女性がいる(ここではジェンと呼ぶことにする)。
一般的に、無神論者とカトリック教徒の間には、大きな信念の違いがある。特に同性愛や避妊、婚前交渉、安楽死などの問題では、まったく意見が合わないことも珍しくない。
ケルシーとジェンには「できるだけ効果的な方法で、世界をよりよい場所にしたい」という共通する思いがあった。それがあることで2人の間には仲間意識や信頼感が生まれ、ケルシーはジェンの意見にも心を開いて耳を傾けるようになった。
その結果、ケルシーはさまざまな問題について考えを変えることになった。たとえば「中絶問題」だ。
彼女は最初、なんの迷いもなく中絶を支持していた。中絶反対派の意見とは異なり、「胎児には道徳的な意味で『人間』と見なせるほどの意識はない」と考えていたからだ。
ジェンと何度も話をするうちに、「命を尊重すべきだ」という中絶反対派の考えに共感を覚えるようになった。今でも胎児に意識があるとは思っていないが、「胎児についての理解をさらに深めれば、命を奪われたときの悲しみが想像できるようになるのかもしれない」と思うようになった。
合法的な中絶を強く支持する気持ちに変わりはないが、「中絶は世の中に悪い結果をもたらすものであり、それを防ぐために『社会はもっと努力すべきである』という考えを持つべきかもしれない」と、真剣に考えるようになった。
このような変化は、ケルシーがジェンの視点を理解しようと努力しなかったら起こらなかっただろうし、ジェンのことを「世界をよりよくするためにがんばっている、自分と同じような問題意識を持つ同志」だと見なしていなかったら起こらなかっただろう。
ある人の道徳的な価値観が宗教的な前提にもとづいている場合、その宗教を信じていない相手との間に共通点を見出すのは難しい。それでも、たとえ世界観が大きく違っていても、ともに意義ある目標を目指している仲間であるという感覚があれば、学び合うことができるのだ。
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