「和田義盛」鎌倉支えた男なのに北条が滅ぼした訳 「鎌倉殿の13人」の1人だった有力御家人の最期

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夜に再度、使者がやって来たときに義盛は「将軍様へは何の恨みもございません。北条義時のやり方が傍若無人なので、詳しい理由を問いただすために武装して行こうと、若者らが話し合っているようです。この義盛が何度も諫めているが、相手にされません。すでに皆、心を1つとしている。こうなってしまった以上、私の力の及ぶところではありません」と回答したといわれる。

同族の三浦義村が突如寝返った

そして、5月2日、ついに和田合戦が勃発する。義盛の邸に軍兵が参集していることから、その報が次々と北条義時のもとに入ってきた。義盛に同心していたはずの三浦義村(和田義盛とは同族で従兄弟)からも義盛蜂起の知らせがあった。

その報を得ると、義時は驚く様子もなく、すぐさま、御所に向かう。実朝夫人や北条政子を鶴岡八幡宮の別当坊に避難させたのだ。義時が御所に向かったのは、将軍を敵方に奪われるのを防ぐためでもあろう。午後4時、義盛の軍勢が御所を襲撃。しかし、義時方の武士がよくこれを防ぐ。

午後6時、和田の軍勢は惣門を破り、南庭に乱入、御所に放火する。実朝は頼朝の墓所・法華堂に入った。和田勢が優勢に見えたが、時が経つにつれて、兵も矢も少なくなってきて、疲弊し、義盛は由比ヶ浜に退却。翌日(3日)に援軍を得て、再び攻勢をかけた。

しかし、日和見をしていた曾我・中村・二宮・河村の軍勢が、将軍実朝の命令書を頂戴したことにより、幕府軍に加勢。幕軍は勢いをつけ、和田方を圧倒し、義盛も江戸義範の家臣に討ち取られた。

合戦後、義盛らの所領は没収され、御家人に分与された。侍所別当の職は、義時が得ることになる。政所別当と侍所別当の就任。義時は幕府の2大要職を得ることになったが、それは和田義盛を滅ぼしたからこそ可能となった。ここに、義時が義盛を挑発した真因を見ることもできよう。

濱田 浩一郎 歴史学者、作家、評論家

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はまだ こういちろう / Koichiro Hamada

1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『あの名将たちの狂気の謎』(KADOKAWA)、『北条義時』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)など著書多数

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