「和田義盛」鎌倉支えた男なのに北条が滅ぼした訳 「鎌倉殿の13人」の1人だった有力御家人の最期
ことの起こりは、その年の2月、鎌倉甘縄にある千葉成胤(ちば・なりたね)の邸に阿静房安念(あせいぼうあんねん)という法師が姿を現したことであった。安念は「信濃国の泉親衡(いずみ・ちかひら)は将軍実朝を廃位し、頼家の遺児・千寿丸を擁立しようとしている。併せて、義時も打倒したいから、助勢を」と成胤に告げるのだ。
不穏な誘いを成胤は蹴り、すぐさま安念を捕らえ、義時に突き出す。安念は謀反の一味を次々と自白。謀反の主体となる者は130人、それに連なる者は200人という大人数だった(『吾妻鏡』)。謀反人は次々と生け捕りになるが、そのなかに、和田義盛の子・義直と義重、甥の胤長(たねなが)が含まれていた。義盛は3月8日に、上総国から鎌倉に馳せ参じる。
そして、鎌倉幕府の3代将軍・源実朝に息子たちの赦免を願い出る。義盛のこれまでの勲功により、息子の赦免は実現する。
ところが、甥の胤長の罪は許されず、陸奥国に配流となるのであった。謀反の張本人というべき泉親衡でさえ、消息知れずで処罰されていない現状であり、他に赦免された者も大勢いる。「なぜ、胤長だけが……」と義盛の怒りと疑念は深まったに違いない。
北条義時が和田義盛を挑発
義盛の神経を逆なでする事件がさらに起こる。胤長が所有していた邸を義盛が拝領したいと願い出て、おそらく実朝の判断により、許可される。
しかし、4月2日、その邸は急に取り上げられ、義時に与えられるのだ。義時は、その邸を被官に与え、義盛の代官をも追い出してしまう。これは、北条義時による和田義盛への挑発行為と見ることができよう。
『吾妻鏡』もこの出来事により、義盛の「叛逆の心はいよいよ止めることができなくなった」と記している。
4月27日には、将軍実朝の使者が義盛の邸に「謀反の実否」の確認をするため派遣されるほど、事態は緊迫していた。義盛は謀反を否定したが、邸内には武者が居並び、不穏な空気は流れていたという。
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