「見るハラ」「見せハラ」大論争で見落とされる視点 なぜ同意できないか、ルッキズムを巻き込み沸騰

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これは「性的な目で見られない人も、『ブス』『ブサイク』という目で見られて不快な思いをしている」ということでしょう。また、逆に「カワイイ」「カッコイイ」という目で見られる人の中にも、その見方で不快な思いをしているケースも散見されます。「見るハラ」という言葉を語るとき、このようなルッキズムに関わるところも混ぜなければフェアな議論にはならないのです。

たとえば、性的な「見るハラ」の被害を訴える人は、「この人は『カッコイイ』『カワイイ』からまあいいか」とみなして終わらせるケースはないか。あるいは、『ブサイク』『ブス』などの侮辱的な「見るハラ」加害者になっていないか。被害の声を訴えることは問題ないものの、「自分は絶対にやってない」とはなかなか言い切れない苦しさを抱えているのです。

「見るハラ」VS「見せハラ」に勝者なし

次に「めざまし8」でもトピックスにあげていた「見るハラ」VS「見せハラ」の論争について。

人間社会で生きている以上、年齢性別や理由を問わず公共の場所では、「見る」「見られる」という行為から逃れられません。もちろん過剰に見続ける一部の人は論外ですが、「自分が見ることも、見られることもある」という前提のうえで主張しなければ説得力に欠けます。

そもそも「見るハラ」が論争になったのは、「日本にそれだけ服装の自由がある」ということ。法律や宗教などの問題がなく、個人が服を選んで着る自由が与えられています。ただ、自由を楽しむのはOKでも、それを周囲がどう思うかは別の話。

たとえば、肌を露出した服装で歩いているときは、「かわいい」「似合っている」から「みっともない」「やめてほしい」までのさまざまな見方があるでしょう。その中から性的なものだけを抽出し、拒絶することで自分の自由を守ろうとするのは無理があります。

MCの谷原章介さんが「路上で凄い露出の多い方だと、『そっち見た』と思われちゃうので下を向いて歩くしかない」と話していましたが、こういう経験をしたことのある人は少なくないでしょう。また、幼い子を持つある母親は、「路上や電車で露出の多い服装は子どもに見せたくない」とコメントしていました。

これらの声もある以上、「自分の着たい服を着て公共の場所を歩く」という自由を優先させたいのであれば、性的なものも含めすべてを受け止める。あるいは、受け流すという責任が伴うのではないでしょうか。しかし、いずれにしても「見るハラ」VS「見せハラ」の論争に勝者はなく、それ以前に勝者を決める必要すらないものなのです。

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