中央線快速「杉並3駅」問題の伏線、荻窪駅の発展史 かつては政治を動かす「別荘地」だった時代も
華族では異色の存在として知られる有馬は、関東大震災後に自身が所有する土地を農園として開放。下町の罹災児童を農園で養護した。また、戦後は競馬やプロ野球の振興にも尽力。その功績から、有馬の名前は年末のグランプリレース・有馬記念として顕彰されている。そのほか、荻窪を別荘地としてブランド化させた人物には関東大震災後に移住してきた歌人の与謝野鉄幹・晶子夫妻や日本初の音楽評論家ともいわれる大田黒元雄などがいる。
そして、荻窪と別荘地の関係を語る上で忘れてはならないのが戦前期に首相を歴任した近衛文麿だろう。近衛は荻窪に荻外荘(てきがいそう)という別邸を構えたことで知られるが、もともとは東京帝国大学附属医院長で大正天皇の侍医頭も務めた入澤達吉の邸宅だった。
荻外荘は橿原神宮や平安神宮を設計した伊東忠太が意匠を担当していたことから、建築史の観点からも注目を浴びている。近衛は1937年に譲り受け、それ以降昭和の政治史にとって重要な役割を帯びていく。
それまでにも、近衛は千葉県の我孫子や神奈川県の小田原、長野県の軽井沢など、各地に別邸を所有していた。近衛は別邸までの移動に鉄道を使うことも多かったが、荻外荘は東京都心部から距離が近いこともあって自動車を使用している。そのため、荻窪駅と近衛との関連性に特別な点は見出せない。
荻外荘は、近衛没後の1947年に吉田茂が購入。野党に転落していた吉田は隠れ家として活用した。1948年に政権を奪還した際には、組閣人事案をここで練っている。吉田はほかに大磯にも別邸を所有していたが、近衛と同様に荻窪駅から中央線を利用した形跡は見られない。
要人は中央線に乗らず
近衛・吉田の時代を通じて荻外荘は重要な政治の場になったため、要人が頻繁に訪れるようになった。だがそれらの要人も、ほぼ自動車で来訪しており、荻窪駅が注目されることはなかった。改めて注目を集めるのは、戦後復興期と高度経済成長期に中央線の沿線住民が急増したことがきっかけだった。
1953年、杉並区は区営建売住宅事業を開始。これは戦後復興期に住宅価格が高騰したことを受け、区が農地を住宅地へと転換させて住宅供給するという独自政策だった。同事業により、中央線でも安価で良質な住宅が購入できるようになり、沿線人口は増加。中央線は1932年に御茶ノ水駅―中野駅間の複々線化を完成させていたが、人口増を受けて中野駅以西も複々線化の声が高まっていく。
1960年代に入ると、さらに郊外開発が進んで三多摩の人口も増加。三多摩に住居を構えたのはサラリーマン世帯が多く、これが“殺人的ラッシュ”とも形容される中央線の混雑を生み出した。
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