中央線快速「杉並3駅」問題の伏線、荻窪駅の発展史 かつては政治を動かす「別荘地」だった時代も

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この田園都市ブームで杉並もフィーチャーされたが、残念なことに荻窪駅にまでその波は達しない。杉並区域は農村然としており、広い土地が手に入りやすかったからだ。荻窪よりも都心部に近く、利便性の高い高円寺・阿佐ケ谷の2駅に宅地が集中した。

高円寺駅と阿佐ケ谷駅周辺で住宅供給のメインプレーヤーを担ったのは同潤会だった。内務省が設立した財団法人で、その主目的は関東大震災によって家屋を失った被災者に住宅を供給することだった。同潤会が住宅建設に力を入れたことで、特に阿佐ケ谷駅一帯は住宅街へと変貌を遂げる。

西口改札とつながる跨線橋。駅南側は住宅街然としている(筆者撮影)

皮肉なことに、杉並ではもっとも早く開設された荻窪駅は関東大震災後の宅地化から取り残されていく。荻窪駅は貨物が中心だったこともあり、南口しかなかった。旅客を意識した構造ではなく、これも街の発展にブレーキをかける要因になった。後述するが、こうした街の成り立ちも現在にまで至る杉並3駅問題の伏線になっている。

高円寺駅・阿佐ケ谷駅が住宅地として伸長する一方、荻窪駅の周辺は工場誘致に力を入れていた。内田は1925年に国内屈指の航空機メーカーだった中島飛行機(現・スバル)を荻窪駅北側に誘致する。

当時、陸軍・海軍は戦力として重要になりつつあった航空機の研究開発を急いでいた。中島飛行機は最新鋭の戦闘機を開発・製造できることから厚い信頼を受け、歳月とともに企業規模を拡大。荻窪駅北側に開設された東京工場は終戦まで日本の軍需産業を牽引した。

軍人と富裕層が邸宅を構える街に

中島飛行機の工場誘致が実現したことにより、駅周辺は活気にあふれていった。1927年には、工場通勤者の利便性を図るために北口を開設。これにより、街のにぎわいは少しずつ駅北側に移っていくことになる。

駅の南口に停留所を設置していた西武軌道は、中央線の線路に阻まれていたことから駅北口への移設は叶わなかった。停留所が北口へと移設されたのは、中央線をオーバークロスする天沼陸橋の完成後の1956年だった。

中島飛行機の工場開設は、軍人が荻窪駅界隈に多く住むようになるなど住民構成にも変化をもたらした。軍人たちが駅界隈に住宅を構えた主たる理由は、陸軍省・海軍省の庁舎に中央線で行けるという利便性によるものだが、中島飛行機の存在も無視できない。

また、富裕層が別荘を建てるという兆候もあった。これが荻窪に東京近郊の別荘地という別の顔を持たせることになっていく。実は荻窪駅界隈が別荘地として歩み始めるのは意外にも早く、1908年に賀陽宮別邸が竣工。さらに、1912年には伯爵の有馬頼寧が荻窪に土地を購入して邸宅の建設を始めた。この時点で高円寺駅・阿佐ケ谷駅・西荻窪駅は開設されていない。つまり別邸に足を運ぶための交通手段は、自動車か鉄道になる。鉄道なら、荻窪駅を使うしかない。荻窪駅の近隣に別荘が集まったのは、そんな理由もあった。

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