「自分たちは犠牲者」の声が忘れている危険な思想 韓国だけではない!なぜ悲劇の記憶を争うのか

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:ゼロサムゲームの争いをしているように見えるが、認識論的には共犯だ。韓国と日本の民族主義はどちらも、自民族の生存を脅かす隣人の攻撃的民族主義という想像上の他者を必要としている。

植民地主義に立脚する日本の右翼の歴史否定論が韓国の反日民族主義を正当化し、韓国の民族主義による日本たたきが日本の右翼の民族主義を強化する。敵対的な2つの民族主義にとって譲歩や妥協が難しいのではない。彼らは、そんなことをしたくないのだ。

かつて日本の左派は、植民地に「した側」と「された側」という関係性を根拠に韓国の民族主義を無条件に擁護し、日本の民族主義を一方的に批判してきた。だがそうした慣行はむしろ、日本の民族主義を正当化することにつながった。日本の「良心的知識人」たちの善意を疑うつもりはないが、現実はそういうことだ。

澤田:異なる民族の記憶が互いを刺激したり、利用し合ったりすると説いています。犠牲者意識ナショナリズムでは「誰がより大きな犠牲を払ったかを巡る競争」が起きるという指摘も興味深いものです。

:アメリカで最初に慰安婦少女像が設置されたカリフォルニア州グレンデール市は、アメリカ最大のアルメニア系コミュニティを抱えている。オスマントルコによるアルメニア人虐殺を経験した彼らは慰安婦問題に同情的で、少女像の設置にも助力を惜しまなかった。

ところがその後、グレンデールで少女像設置を支援したアルメニア系の記憶活動家と話してみると「自分たちの経験(虐殺)と慰安婦問題を比較しようとは思うな」と言われた。自分たちのほうがよりひどい経験をしているのだというアピールで、犠牲の大きさを競う不毛な競争の典型だ。

犠牲者も加害者になるかもしれない

澤田:犠牲者意識ナショナリズムの危険性に警鐘を鳴らしています。

:加害者が犠牲者を装うことを許してしまうだけでなく、犠牲者も潜在的な加害者になりうるのだと自覚する道を閉ざしてしまうからだ。

ホロコーストの歴史的教訓は「どうすれば自分たちが再び犠牲者にならないか」ではなく、「私たちも機会があれば加害者になるかもしれない」と悟ることにあるという(ポーランド出身のユダヤ系社会学者)ジグムント・バウマンの指摘に耳を傾ける必要がある。自己省察を放棄した道徳的正当性ほど危険なものはないのだ。

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