論理がわかる人とまるでわからない人の決定的差 人間の非合理さを露呈させる簡単な論理学の問題
認知心理学者たちは、人が論理的になるのは正確にはどういう場合かという議論をしている。それは単に具体的なシナリオであれば何でもいいというわけではなく、わたしたちが大人へと成長する課程で──またおそらくは遠い祖先が進化の過程で──対処法を身につけてきた、ある種の論理的課題を具現化したものであるはずだ。特権と義務の監視は、そのような“論理が働く課題”のなかに入っている。危険の監視も入っている。
「子供が自転車に乗るときは、ヘルメットをかぶらなければならない」という注意事項が守られているかどうかを監視するには、自転車に乗っている子供(つまり〈P〉)がヘルメットをかぶっているか、またヘルメットをかぶっていない子供(つまり〈Qでない〉)が自転車に乗ってしまわないかを監視すればいいのだが、これは誰もがいわれなくてもわかっている。
論理は人類が獲得した最高の知識の一つ
ところで、条件規則の違反が不正や危険に等しいときなら、そのルール違反を見つけられる思考力というのは、必ずしも論理的思考力とはいえない。論理とは本質的には思考の形式であって、内容ではない。PとQが何を表しているかではなく、PとQがIF‐THEN(ならば)、AND(かつ)、OR(または)、NOT(でない)、SOME(いくつかの)、ALL(すべての)などによってどういう関係に置かれているかを問題とするものだ。
論理は人類が獲得した最高の知識の一つであり、これを使えば、あまりなじみのない抽象的な主題でも(法律や科学など)推論を働かせることができるし、シリコンに実装すれば、自ら動くことのない物質を思考機械に変えることもできる。論理には汎用性があり、内容に左右されない。
論理は「『PならばQ』は『〈〈P〉かつ〈Qでない〉〉ではない』と等価である」といった形式であり、PとQに何を入れても成立する。これに対して、論理の手ほどきを受けていない人間の脳が起動するツールは、汎用性がなく、内容に左右される。問題の内容(問題に固有のもの)とルール(ツールを動かすためのもの)を一つにして処理するように特化したツールである。そこからルールだけを切り出して、別の問題や抽象的な問題、無意味に見えるような問題に応用することは、人間には難しい。
だからこそ人間は、教育その他の合理性強化のための制度を作り上げてきた。そうした制度は、わたしたちが生まれもち、ともに育ってきた生態学的合理性(いわゆる常識や生きるための知恵といったもの)を、より視野の広い、より強力な推論ツール(過去数千年にわたって優れた思想家たちが磨きをかけてきたもの)で補強する役割を担っている。
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