「物知りな人がエラい」日本の教育の決定的ズレ感 YouTubeで得られる情報を詰め込んでどうする
──日米の教育の違いとして大きいのは「他人と異なる行動や考え」に対する評価。日本では周りと合わせて発言や行動ができると褒められるのに対し、アメリカでは人と違うことをしたら褒められます。
佐渡島:大きな違いですよね。けれど、アメリカ式の「みんな違っていいんだよ」という教育OSを日本も目指すべきなのかどうかもよくわからない。やはり、「何のために教育するのか」を、国や社会ごとに問い直す必要があって。そして、その答えは必ずしも「将来よく働けるようになるため」でもないかもしれません。
人間は働くために生まれてくるわけではないのだし、たまたま僕らは資本主義社会で暮らしているから今は働かないといけないけれど、これから技術が進化して社会が成熟していくと、ギリシャ時代のように奴隷を雇わずとも、誰も働かなくてもいい時代になるかもしれない。
そうなったときに大事になるのが、1人ひとりが「何のために生きるのか」と考えて、自分にとっての生きる意味をつかめる力。まさにそういう時代にも対応できる「WHATを見つけるための教育」が必要になるのかなと思うんですよね。
おそらく、「他人と違うことを言いなさい」と強制されるわけではなく、「本当に皆と同じでいいの?」と問い直されるような教育によって、自然と個人間の差異が出てくる。
「知の外部化」が進む
佐渡島:日本の学校教育は限りなく「HOWを教え込む教育」に偏っています。工業中心の時代はそれで結果が出ていたから誰も疑問視しなかったかもしれないけれど、今は学校でHOWを教える意味がなくなろうとしている。
なぜなら、今やHOWの情報はYouTube (ユーチューブ)で十分に受け取れるし、これからもさらに蓄積と整理が進むはずだからです。だから学校でHOWを教わる必然性はどんどんなくなっていくし、「知の外部化」を徹底していくほうが、これからは効率がいいに決まっています。
「知の巨人」という言葉があるように、昭和・平成の時代には「知」に対する過剰な評価が存在していたと僕は思っていて。もっと主観的な感覚を研ぎ澄ませて、内なる欲望の輪郭をシャープに磨けるような学習。そんな学習がこれからもっと大切になると感じているんですよね。