「戦争の正義」から考える近代西洋的価値観の限界 「次なる100年」は「資本」から「芸術」が中心へ
水野:いないですか。それから、たとえばトマス・モアの『ユートピア』(1516年)で、羊が人間を食っているという警鐘がありますが、現代はまさにそうなっていますね。兵器が人を食っていますし、それから不平等が人を殺している。現代社会を風刺して、『ユートピア』の21世紀版が書けると思うんですよね。
貧困や不正を根絶するための活動・支援を行っているオックスファム(OXFAM)は、今年の報告書のタイトルを“INEQUALITY KILLS(不平等な人殺し)”としています。400年たっても、科学はすごく進歩しているにもかかわらず、人間のやっていることは変わらない、あるいは人間の精神はむしろ堕落していると思います。トルストイの『ホルストメール』でもいい。馬のほうが人間よりどう考えても賢いぞと。そういうことを描ける文化人がもっと出てきてよいと思いますね。
次なる100年を考える
木村:そうですね。水野さんのご著書『次なる100年』を読んで心に響いたのが、次なる100年の中心は「芸術」になるという指摘です。「人間のこころ」の問題が人々の関心の中心にくるというご指摘は印象に残りました。
水野:簡単に言えば、もうお金(資本)が地に墮ちてしまったので、次は何かというと芸術、とくに演劇になるだろうと。演劇は五感を全部使って表現します。身体も動かすし、声も出す。舞台芸術は人間の感情やメッセージがダイレクトに伝わる表現方法だと思います。私が影響を受けたのは鈴木忠志さんの演劇ですが、主役はみな狂人ですね。
ギリシア悲劇の主人公も、シェイクスピアの『リア王』や、三島由紀夫の戯曲『サド侯爵夫人』なども、主人公はみな狂人です。人間は何でもするのだと。親殺しもするし、子殺しもすると。鈴木さん曰く、狂人を追究していかないと、人間の真の姿を理解できない。
舞台芸術というものを、私たちは、最初は主役が狂人で、自分は正常だと思って観ている。しかし、何度も観ていると、いや、あの舞台にいる狂人たちのほうが自分に忠実で、舞台を下から観ている、常識だと思っている私たちのほうが狂っているのではないかと、逆転してくるのがわかるのです。
ウクライナは大変だなと言っているだけで、何も行動できない。すぐに駆けつけて手を差し伸べなければいけないと思っていても、他人事で終わってしまう。そういう自分は本当に正常なのかと。
木村:その通りかもしれません。狂人と正常人という区別を明確にしたのが近代社会です。しかし、たとえば、われわれ人間は、与えられた環境次第で、慈悲深い菩薩にも、悪魔にもなれる塑性を持っています。戦争では、より多くの敵兵を殺した英雄という名の狂人に狂人から勲章が贈られる。この倒錯ね。
啓蒙の光を浴びた近現代の人々は、狂を、死とともに遠ざけてきたことから、人間はその本質を見失ってしまったのではないか。プーチンは冷徹な軍略家なのかもしれませんが、人間的な感情を喪失して、「タナトス(死の本能)」の誘惑に操られる狂人にほかならない。暴君ネロも、比叡山を焼き討ちした織田信長も、政敵の粛清を重ねたスターリンも、そしてプーチンも、わたしたちの「同時代人」なのです。
ニーチェやフロイトも指摘していることですが、近代社会が「理性」の力でとうの昔に克服したはずなのに、ときどき毒々しい狂――非合理が顔を出すわけですね。「理性の逆流」はいま、わたしたちが21世紀に目撃していることですよ。進歩信仰の燦燦とした光を浴びた近代合理主義が、狂という、人間存在の暗部に横たわる、まがまがしい非合理をついに封じ込めてしまった、と勝利の凱歌をうたったところから、文明がどこか皮相なものになってしまったともいえる。異形の「逆髪(さかがみ)の狂女」をはじめとして、世阿弥の能は狂を最高レベルまで純化した芸術ですよ。その狂の原点に目をふさぐと、芸術は本来の荒々しい生命の輝きを失ってしまう。「次なる100年」を支える文明は、人間とは理性とは狂気とは何か、ホモサピエンスの本質を見つめなおすことから考えるべきかもしれませんね。
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