瀬戸内寂聴さんがかつて「意見広告」を出した背景 反武力という自分の意思を自分のお金を投じて
私が家を出て京都で放浪していた時、京大附属病院の研究室と図書室に勤めていた。その頃、私は新進作家の三島さんにファンレターを出し始め、文通していた。少女小説を書いた時、ペンネームの三谷晴美というのは、三島さんが選んでくれた。
私が小説家になれて、対談などするつきあいになっても三島さんはやさしくしてくれた。
川端康成さんも、私にやさしくして下さった。みんなは怖いと言っていたが、私は川端さんを怖いと一度も思ったことがなかった。
その川端さんはノーベル賞をもらった後、三島さんが亡くなって二年後に自殺されてしまった。二つの死を、私はたまたまテレビで知った。あの時の衝撃を今も忘れない。
三島さんの時の驚愕度に比べると、川端さんの時は、あ、やっぱりというような気持ちがどこかにあった。三島さん亡きあとの川端さんは、何か危なっかしい感じがしていた。
世間は色々な勝手な噂をし、もし川端さんが貰ったノーベル賞を三島さんが貰っていたら、二人とも自殺しないですんだのではないかなどと言っていた。
真偽はわからない。
後年、ポルトガルのリスボンで、私は三島さんの実弟平岡ポルトガル大使とお逢いして、親しく三島さんのお話を二晩つづけて伺った。二晩めは大使と私と二人だけで陪席者は一人もいなかった。
その時、大使は、三島さんが討ち入り前の一年ほどは、川端さんと不仲になっていた話をされた。そして低い声で、
「もしあの賞を兄が貰っていたら、二人とも死ななかったでしょうね」
とつぶやかれた。その平岡氏も今は彼岸の人である。(二〇〇三年十一月 第二百二号)
寂聴訳源氏物語の読まれる理由
私の訳の源氏物語が、二百万部を突破した。正確に言って二百五万部になっている。
版元の講談社が、お祝いと感謝の会を十一月十八日、私の東京の常宿のパレスホテルで開いてくれた。
会の主宰の講談社がお招きしたのは、この源氏物語十巻が出て以来、あらゆる面で応援して下さった新聞、雑誌、放送関係のマスコミの人々である。
十巻の全集物でこんなに売れたのは未曾有のことだと版元は大喜びである。まして最近はあらゆる分野が不景気で、出版界も御他聞に洩れず、本がさっぱり売れなくなり、どの出版社も青息吐息の御時勢なのである。