瀬戸内寂聴さんがかつて「意見広告」を出した背景 反武力という自分の意思を自分のお金を投じて

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なぜ、ひとりで出したか。あんなに高い広告料とは知らなかったから。高価と知っては、とても人を誘えなかった。

なぜ、反武力の意志を伝えなければならないのか。アメリカのイラク武力攻撃は、明らかに間違っているから。

私は十年前、湾岸戦争の直後のイラクへ、薬やミルクを持って、乗り込んでいる。世界じゅうから集まっていたジャーナリストはみんなバグダッドの一つのホテルに集結させられて、自由行動を禁じられていた。

そんな時、私はバグダッドの病院の病室を提供され、比較的自由に、行動出来た。病院へも民家へも、爆撃被災地も、遺跡までも行くことが出来た。

被災者の目も当てられない惨状の地獄図を病院で見たし、陽気でのんびりした、親切なイラクの庶民たちと親しく話しあえたし、インテリの女医や教師やキャリアウーマンにもたくさん会った。

子供たちはみんな無邪気で人なつこく、可愛らしかった。

私が命がけで運んだ薬で、どれだけの子供たちや被爆者の命が助かったかしれないと、何ヶ月もたって、パリ経由の礼状を病院の医者からもらった。

あの子たちをまた殺させてはならぬ。

ちなみに意見広告は個人では受けつけられない。私は宗教法人「寂庵」からとした。(二〇〇三年三月 第百九十四号)

十一月の明暗

三十年前、昭和四十八年(一九七三年)の十一月十四日、私は中尊寺で出家得度した。法師の今春聴(東光)師はガンの手術で得度式にはお出まし願えなかった。中尊寺は今師を貫主といただいている名刹だったので、弟子となる私の得度するのは、中尊寺以外には考えられなかった。

その直後、世界に第一次石油ショックが湧き起り、それ以来、世界の経済はがたぴしして、あちこちで砲火の絶え間がなく、平和は永久に失われたかのように感じられてきた。

私の出家の報を、たまたまパリで聞いた開高健さんと安岡章太郎さんが、

「ウーン、女の三島か」

と話しあったということを、後年、安岡さんから聞いた。出家とは生きながら死ぬことと私はわきまえていたので、まあ、そんなものかなと、安岡さんと笑った。

三島由紀夫さんが割腹した事件は昭和四十五年(一九七〇年)十一月二十五日であった。私の出家はその三年後である。十四日と二十五日のちがいだが、ともに十一月なので、十一月の声を聞く度、私は三島さんのことを切実に思い出す。

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