「報道の自由」は世界共通のルールなのか 世界新聞・ニュース発行者協会の幹部に聞く
──今回の事件をイスラム教やイスラム教徒と結び付けるべきではない、という意見がある。WAN-IFRAはどう見るか。
テロの実行者とイスラム教過激主義との間に関連性を見つける動きは否定できないだろうと思う。しかし、彼らをイスラム教徒としてしまうことについては異論もあるだろう。
信仰はプライベートな領域だ。イスラム教の信仰を持つことと今回の事件はまったく異なることだ。しかしながら、2人がイスラム教の一部からヒントを得たとはいえるだろう。大部分のイスラム教徒たちとは異なる解釈で実行犯たちはイスラム教を解釈した。事件全体を今後評価するとき、この点は無視できない。
宗教に限らずいかなる種類の過激主義も、これを信奉する人たちが「自分たちは過激主義だ」と自称している場合がある。または他人がそう定義する場合もある。定義づけ自体が人々を分断化させ、問題を単純化することがある。
テロはイスラム教あるいはムスリムのせいだろうか。あるいは政府の対外政策や社会の構造が悪いのか。単純な一つの答えはない。人生そのものがそれほど単純ではないからだ。誰が悪いと相手を指差して終わり、という問題ではない。全貌を理解するには社会全体の努力が必要になる。
宗教を風刺の対象にする自由も擁護すべきか
──シャルリ・エブドはイスラム教に限らず、キリスト教やユダヤ教も風刺の対象とした。その表現は集団や個人を憎悪して、差別したり、けなしたりする「ヘイトスピーチ」に近かったとも言われている。報道や表現の自由を擁護するとき、何が描かれていたとしても擁護するべきだろうか。
ヘイトスピーチが何なのかは、差別禁止法などで法的に定義されている。人種差別やホロコーストの否定は禁止されている行為だ。あなたが問題にしているのは報道機関に侮辱する権利や自由はあるか、ということだろうか。
──そうだ。WAN-IFRAとしては、何が書かれているかではなく、報道する権利そのものを擁護するということなのか。
そのとおりだ。すべての加盟会員の権利を擁護する。14日発売のシャルリ・エブド表紙(ムハンマドの姿が描かれている)を13日時点でいくつかの媒体が報道したが、表紙を掲載した媒体もあれば、掲載しなかった媒体もある。私たちはそれぞれの会員の異なる意見を尊重する。報道の自由を擁護するといっても、会員に表紙の画像を印刷するように義務化するのは間違っている。掲載しないことを決めた新聞はそれなりのまっとうな理由があってそうしている。これを尊重したい。一方、自分たちで出すと決めた媒体の決定も同時に尊重したい。
「私はあなたが考えることを気にしない」、同時に「あなたも私が言うことを気にしないでほしい」という考え方だ。私の個人的な信念や侮辱と感じるかどうかはここでは問題ではない。
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