その時点で尖閣諸島を施政下に置いていたのはアメリカだった。アメリカは太平洋戦争後、サンフランシスコ条約で日本の新たな国境線を引き、日本の主権を前提に尖閣を含む沖縄県で施政権を行使し、尖閣2島を軍の射爆撃場として貸借した。だがニクソン政権はベトナム戦争からの脱却を目指して1971年7月に対中和解に乗り出しており、中国の突然の主張に対し日本を擁護せず、見知らぬ第三者の立場をとった。この「当事者」の裏切りは日本を深く苦しめていく。1972年5月、アメリカは沖縄県を日本に返還した。
中国の主張にはもう1つ重要な伏線があった。米中和解を受け、1971年10月には中国の国連加盟が実現した。当時、国連ではのちの国連海洋法条約に連なる新たな海洋法体系が議論されており、中国は1972年1月に初めて関連会議に出席した。その準備の過程でおそらく、中国は新たな秩序における島の重要性に気づいたのである。のちに中国は東シナ海で、沖縄トラフまでの「大陸棚」全体が自国の管轄海域だと主張するが、中国はこの時期、その概念を尖閣への主張とセットで自国に導入した。
自国の海洋権益に対する考慮は、1980年代末まで中国の尖閣主張の最重要部分だった。だが中国の発展にとって日本からの経済協力は不可欠だった。中国は主張を一時「棚上げ」し沈黙を続けた。
対米安全保障と反日ナショナリズム
次なる変化の始まりは1989年である。中国は天安門事件後に西側諸国から制裁されたのをきっかけにアメリカを脅威と認識し、対米バッファーとして海域を重視し始めた。1992年には釣魚島を中国領の一部と規定した領海法を制定する。1995~1996年の第三次台湾危機で中国の脅威認識はさらに強まった。台湾有事に備え、このころ中国は台湾海峡に接続する尖閣諸島周辺の海域でもしきりに科学調査を実施した。ただし、アメリカの関与政策や米中間の圧倒的な力の格差などにより、中国も挑戦的姿勢は自制した。
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