極みに達した保守の過激化が米国分裂を加速させた。その原点は、共和党と南部の結合にある。
輝かしい「リンカーンの共和党」が今日の保守反動政党に変貌した分岐点は、1972年の大統領選でニクソンが断行した「南部戦略」にある。今年は、そのニクソンの大統領辞任から40周年に当たる。
ニクソンは名参謀ケヴィン・フィリップス(共和党ストラテジスト)から、「公民権運動に不満な南部と南西部の白人民主党員が、共和党の潜在票だ」と告げられていた。民主党は元来、奴隷制固執・反連邦主義の南部中心の政党だったが、北部の党員は20世紀を通じて革新化する。他方で南部党員は差別と旧弊さの中に残留し、ディクシークラット(以下D、→関連記事へ)と呼ばれた。
ニクソンは優秀だが貧しい生い立ちゆえに劣等感が深刻で、「東部エスタブリッシュメント(以下EE)」に痛烈な疎外感を感じていた。デューク大学法学大学院を卒業した彼は、EE屈指の弁護士事務所に就職を拒否され、疎外感が固着。その後、政治家として赤狩りで出世したが、体制を独占しながらも革新的なEEに忌避され続けた。EEは共和党と北部民主党の中核で、ニクソンはEEを捨て、Dに鞍替えした。D自体、北部への怨嗟と疎外感は南北戦争の敗北で固着している。ここに似た者同士の癒着が実現したのである。
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