日本人の間で進む「清潔こそが正義」社会のリアル 私たちはこの「漂白化」の前にはなすすべもない

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面白いことに、こういう話をするとTwitterなどで「メディアは日和ってはいけない」と意見する人が出てくる。何が面白いかというと、そういうアカウントをさかのぼって過去発言を見てみると、メディアに登場する人たちに批判を繰り返している点だ。おそらく誰もが知らぬ間に批判を重ねているに違いない。そして世はさらに漂白化していく。

漂白化とは、世の中が白くなるという意味だ。この観点から、当連載では、企業活動の徹底したコンプライアンス化、コンテンツなどの漂白化、徹底した男女平等意識、などを取り上げてきた。

そして、現在、私の最も関心をもっている事は「汚さ」と「清潔さ」だ。それは文字通り漂「白」化といえるかもしれない。

汚れた人、不潔な人をメディアに出しても法律的には問題がない。しかし、このところ社会は急速的に小ぎれいで、清潔な人を求めるようになってきている。少なくとも私はそう感じる。

さらには誰もがきれいに、きれいになろうとしている。このきれいは、美しい意味だけではなく、清潔に、を含む。

そこで、今回は、この「汚さ」と「清潔さ」を考えていきたい。それが漂白化する社会の最終的な象徴にも感じるからだ。

男女とも自分の美容に時間を費やす時代

先日、某討論番組のアーカイブを見ていて驚いた。その番組は35年ほど続く長寿番組として知られる。1990年代の様子を見ると、失礼ながら出演者がとても現代にはそぐわない。ボサボサの髪、服装もいい意味ではラフだし悪い意味では乱れている、タバコの煙が充満しているし、言葉遣いも乱暴だ。

一方、つい先週に見た同番組の論者たちは清潔感にあふれて、外見も整っていた。

清潔感を持っていることがメディアに出る必要十分条件ではないだろう。しかしそれでもなお、大きな変化のように私は感じた。メディアは、けっきょくのところ、視聴者が見たい人を出演させる装置だ。

もちろん、テレビを見ている人が全国民の総意を示していないのは知っている。ただし、他のメディアも同様の傾向がある。少なくとも、この時代の推移とともに、視聴者の志向も変容してきたのは間違いないだろう。

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