19世紀になると、しかしこの状態はまったく逆になってしまった。拡大する西欧、イギリス、フランスのもとで、ヨーロッパは衰退するオスマン帝国の領土をつぎつぎと奪ってゆく。その始まりがギリシャ独立運動だ。ここで、19世紀のヨーロッパから見た視点、すなわちオリエンタリズムが完成する。主客は転倒し、ビザンツ=オスマンから見る視点ではなく、西欧から見る視点が世界史の視点となる。
「進歩的な西欧、反動的なアジア」というイメージは、そこから生まれるのだ。それ以後、オスマン支配下にあったセルビアやボスニアは、後れたアジア地域のヨーロッパになる。オスマントルコといえば、その領域はペルシャとともにウクライナの南の黒海地域、そしてグルジア、アゼルバイジャン地域へ広がっていた。
だから、すでに紹介した小説の主人公アリは、教師からアゼルバイジャンは反動的アジアに入るのか、それとも進んだ西欧に入るのかと問われたのである。ウクライナやコーカサス地域は、ロシアによってすでにオスマントルコからロシアに引き入れられ、晴れてヨーロッパとなっていたのである。だから、ヨーロッパとはいわゆる西欧ヨーロッパの侵攻した地域だけでなく、コーカサス地域までに広がっていたのだ。
ロシアはヨーロッパなのか?
しかし、一方でロシアですらヨーロッパなのかという問題が残る。17世紀末にヨーロッパに接近したロシアは、自らをヨーロッパだと感じてきたのだが、ヨーロッパのほうはそう思っていなかったのだ。「野蛮なロシア」は、ヨーロッパの鬼子であり、アジア的、タタール的野蛮の象徴だったともいえる。ビザンツ文明の正統派でもあったロシアは、ビザンツ帝国がオスマン帝国に支配されたときに、その中心のビザンツ中央文明になるはずであったのだが、ロシアはヨーロッパの周辺文明になることを選択したのだ。その結果、ロシアはつねに西欧文明の周辺文明というコンプレックスを抱くことになる。
ヨーロッパ文明を受け入れ、アジアでありながらアジアでない西欧の周辺国を選んだ日本より1世紀以上早く西欧の周辺文明国となったロシアは、日本同様、ヨーロッパであると信じつつヨーロッパとして相手にされない屈折した国となったのである。それでは、そこから離れたウクライナはどうか。この居心地の悪さは、ロシアだけでなくウクライナ、さらにセルビアにもいえる。
イスラム圏としてしっかりとアジアにとどまることを決意したアゼルバイジャンと違い、正教会のセルビアとウクライナは微妙だ。正教会の祖国ギリシャはすでにヨーロッパとして歓迎され、西欧文明の祖国として珍重されている。ロシアに分割されていたカトリック・ポーランド領も、すでに進歩のヨーロッパに組み込まれている。
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