私は40年前にユーゴスラビアのザグレブに住んでいた。ザグレブにはサヴァ川というドナウに注ぐ川が流れており、旧市街はその北側、新市街はその南側にあった。彼らは冗談半分に南の新市街の人々を、軽蔑的にバルカンそしてアジアと呼んでいたものだ。少なくとも、オーストリア・ハプスブルクとハンガリーの支配下にあったクロアチア人は自らをヨーロッパ人であると見ており、ユーゴスラビアの南の共和国、ボスニア=ヘルツェゴビナやセルビアの人々をアジア人として、見下して見ていた。
ヨーロッパの中心はイスタンブールだった
では、サヴァ川の向こうから見ると、どう見えるのだろうか。なるほど、西欧が世界を支配してきた歴史から見ると、この地域は反動的なアジアに見えるかもしれないが、向こう岸から見ればそうともいえないのだ。
歴史学者である渡辺金一の書いた『中世ローマ帝国―世界史を見直す』(岩波新書、1980)という本がある。その冒頭には、ローマ帝国崩壊後は西ローマではなく東ローマこそヨーロッパ世界の中心であったと書かれてある。確かに中世を見ると、ヨーロッパ世界の中心は西ではなく、東ローマの首都すなわちイスタンブールこそヨーロッパの中心であったことがわかる。
やがてこの地域は、15世紀にオスマントルコ帝国に支配されていく。しかし、オスマン帝国においても、この地域は後れたアジアになったのではなく、16世紀から17世紀まで繁栄を極めるオスマンの中心になったのである。オスマン帝国は、オーストリア帝国のウィーンまで迫り、やがて撤退するが、かつては繁栄を誇ったのだ。
そうした視点から見ると、すべては逆に見える。サヴァ川の北のヨーロッパ的旧市街こそ辺境の地で、南のバルカン地域こそ進歩的世界であるのだ。今、パリやロンドンに近いことが進歩的だとすれば、その時代はイスタンブールに近いことが進歩的であったことになる。私のところにセルビアからの留学生が来ると、必ずこの話をすることにしている。
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