パンダ来日の扉を開いた?ニクソン訪中から50年 世界に広がるパンダ中東で初めてカタールにも
1940年代にアメリカとイギリスへパンダが贈られたことはあったが、1972年4月にアメリカへパンダが来た時、中国国外でパンダがいたのは、中国からプレゼントされた旧ソ連と北朝鮮、動物商から購入したイギリス(前述のチチ)だけだった。冷戦中の当時、中国は共産圏にパンダを贈っていたようだ。
しかし中国は1972年にパンダをアメリカと日本に贈って以来、西側諸国を含めさまざまな国へ贈るようになった。1973年にフランス、1974年にイギリス、1975年にメキシコ、1978年にスペイン、1980年に旧西ドイツへパンダを贈った。
このうちメキシコのパンダは1981年(1980年も生まれたが8日後に死亡)、スペインのパンダは1982年に初めて繁殖に成功した。日本で初めて生まれたのは1985年のチュチュ(初初、誕生の43時間後に死亡)、初めて無事に育ったのは1986年生まれの雌のトントン(童童)なので、メキシコとスペインはそれよりも早い。
パンダが貸与になった理由
当時、パンダは中国から無償でプレゼントされていたが、その後、貸与に変わった。きっかけは、中国が1981年にワシントン条約に加盟したこと。中国の加盟時、パンダは最も規制の緩い「付属書Ⅲ」に分類されていたが、1984年に「付属書Ⅰ」に変更され、商業目的の国際取引が原則禁止された。
その後、中国国外へ移動するパンダは、基本的に保護研究の目的で中国から貸し出されることになった。中国国外で生まれても、所有権は中国にあるので貸与だ。
スミソニアン国立動物園では、1972年に中国から来たリンリンが1992年、シンシンが1999年に死亡。代わって、2000年に雄のティエンティエン(添添)と雌のメイシャン(美香)が中国から来た。この2頭は繁殖に成功し、これまでに3頭の子どもを中国に返還している。
現在は、2020年8月に生まれた雄のシャオチージー(小奇跡)が同園にいる。両親も含め3頭は、2023年12月の中国返還が決定している。新たにパンダが来なければ、ワシントンD.C.にパンダがいなくなる。
上野動物園では、ランランが1979年9月に死んだ後、雌のホァンホァン(歓歓)が1980年1月に来園。カンカンが1980年6月に死ぬと、雄のフェイフェイ(飛飛)が1982年11月に来た。ホァンホァンとフェイフェイは相性が悪かったので、人工授精で前述のチュチュ、トントン、そして1988年に雄のユウユウ(悠悠)が誕生した。
1992年11月には、パンダの遺伝子の多様性を維持するため、トントンの繁殖相手候補として、雄のリンリン(陵陵)が北京動物園から来園。交換でユウユウが北京動物園に旅立った。これは、中国国外で生まれたパンダが中国へ「里帰り」した初の事例でもある。
リンリンの来日は、パンダがワシントン条約の「付属書Ⅰ」になった後だが、日本に所有権があるユウユウとの交換なので、リンリンは中国からの贈与になり、日本に所有権がある最後のパンダとなった。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら