巨大ターミナル「新宿」を迷路駅にした数奇な歴史 古くからにぎわった東口、浄水場だった西口
新宿駅西口は、権利関係が複雑に入り乱れていた。例えば、国鉄の改札にたどり着くために小田急の敷地を通らなければならないといった具合だ。これらを整理し、モータリゼーションの時代を見据えて自動車が駅まで乗り入れられるロータリーと駅前広場、浄水場の底を歩行者の空間として利用することで歩車分離も図られた。
高度経済成長で東京都心部の過密が問題視されると、有楽町駅前の東京都庁舎を淀橋浄水場跡地へ移転させる計画も浮上。同時期の1971年には淀橋浄水場跡地の一角に京王系列の京王プラザホテルがオープンし、その後に高層ビルが次々と建設されていく。そして、1991年には都庁舎が移転した。
根強い反対から移転計画が膠着状態に陥っていた都庁舎の移転は、1979年に都知事が鈴木俊一へと代わったことで前進する気配を見せた。鈴木は丸の内・有楽町への一極集中を分散させるために副都心計画を積極的に推進。都庁舎移転はその一環だった。
当時の都職員は一般行政職だけでも約1万3000人ともいわれ、そのほか消防・警察、バスや地下鉄などの交通局、都立高校の教員や都立病院の医師・看護師、外郭団体職員などの一部も西新宿へと移る。その職員数は膨大で、都庁舎の移転は“平成のミニ遷都”と呼ばれるほどだった。都庁の移転は新宿駅西口の発展を促し、1997年には都営大江戸線の都庁前駅が、2000年には新宿西口駅が開業するなど街の発展にも寄与した。
大変化の途上にある新宿駅
その間、1980年には都営新宿線が開業。1986年には埼京線が乗り入れを開始するなど、新宿駅の存在感はさらに増していった。一方で、新宿の発展を牽引してきた新宿駅そのものが、皮肉にも時代の変化により、東西の行き来を妨げ街の発展を阻害する要因と目されるようになってきていた。
これまでにも駅の外には東西を行き来できるルートがあったが、駅構内にも自由通路を望む声は強かった。JR・新宿区・東京都は、新宿駅周辺を再整備する「新宿グランドターミナル」構想の初手として、2012年から駅構内で東西を行き来できる自由通路の整備に着手。2020年に完成し、駅の中で東口と西口が結ばれた。
新宿グランドターミナル構想では、線路上空にも東西を結ぶ空中デッキが計画されている。2020年には、小田急と東京メトロが西口の小田急百貨店新宿店跡地などに高さ260mの高層ビルを建設する計画を発表した。新宿駅は大きな変化の途上にある。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら